折々スケッチ

小さなスケッチブックやハガキに水彩と鉛筆ペン等で描いた絵を中心に、感じたこと等日記代わりに添えています。

ブログ開設3000日目

2024年05月31日 | 





ブログを始めて今日で3000日目だと気が付いたのは数日前の事です。千夜一夜物語どころか三千日、と言っても投稿は休み休みになってしまいましたが、ともかく続いては来ました。

2015年8月夫が逝ってからの忙しかった半年、仏事や様々な手続きが一段落した後で急に気分が落ち込んでしまいました。時間が出来たのだから好きな事をすればいいのに何もする気になれない。「空しい」ってこういう事かしら、これではボケてしまいそうと思って無理やりにでも目標を決めることにしました。
その1つは夫の三回忌を済ませたら「個展開催」と決めて、早速街の中心にある一番小さいギャラリーを予約しました。それまでに作品を作る事も目標です。それからそれまでも興味はあっても手が出なかったFacebookとブログも始めてみました。それが3000日前の事。始めてはみたもののFacebookは実名なのが恥ずかしくて中止。匿名で好きなことが好きなように書けるブログなら私にもできそうな気がして、ダメなら止めればいいと気楽に初めて8年余が過ぎました。
過ぎた自分のブログを読み返すとあんな事こんな事もあったなぁととても懐かしい。私は日記を付けないので、日記代わりの記録ともなっています。そしてブログを通していろいろな方の考えや暮らし方、各地の風景や花々に触れることが出来たのは想像以上に楽しいことでした。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

31日は朝には小雨の止み間があり、自転車で用足しに走りました。
区役所でマイナンバーカードの更新、銀行で通帳に記帳、名古屋市の敬老パスの更新、ドラッグストアーで買い物・・・ひとつも忘れず滞りなく1時間半で帰宅。まだ記憶も大丈夫だわと自分に言いました。マイナンバーカードを作って5年過ぎ、更新時期のお知らせが来て驚いたのは写真は10年間変わらずそのままだという事。マイナンバーカードに表示されている私の顔はすでに5年前のもの、当然少し若いです。この顔のままあと5年、本物があまりかけ離れて歳を取らないようにしないと証明にはならないのではないかと思っています。5年後にも区役所まで自転車で走って更新するつもりでいます。その時はまたブログでご報告・・・その頃は86歳、まだ平均寿命にも達していません。大丈夫です!







また また中止

2024年05月26日 | 開田高原

開田高原・御嶽山
(今日の絵は山男フォト御嶽山さんのブログ写真からハガキに描いたもの)




今年初めての台風が発生とか、その影響で前線が刺激されて大雨の心配があるとか。なぜ今なの、意地悪な台風に文句を言っても仕方がないのですが文句も言いたくなります。

5月27日から1泊2日の「撮影とスケッチツアー」に行く予定でした。ツアーはJR南木曽駅で集合して妻籠と大妻籠で自由行動・おんたけ休暇村に泊まって、翌日は開田高原で過ごしJR木曽福島駅で解散という行程です。なので昨日の夕方にはJRの切符を買いに行き、家に帰るとすぐに電話があり「台風の影響で大雨が心配されるためツアーは中止します」と。天候のせいなら仕方がない事ですが・・・今回は「撮影とスケッチのツアー」なのでたとえ雨でも雨に煙る街道や霧の流れる山々などもかえってよいかもしれないと思っていただけに中止は本当に残念! 26日の今日も昨日もおとといも…晴天なのに、です。すでに準備したカッパ、靴のカバー、丈夫な傘にリュックも部屋の隅に出したまま、まるで私の残念な気持ちが積まれている感じです。








今年2月の「雪の美山町」ツアーは積雪ゼロで雨の予報にキャンセルしました。5月連休の「安曇野と立山」のツアーは参加者不足で催行中止、そして今回は台風の雨でまたも催行中止。やはりお天気を見ながら自分で計画して出かけなければ思うようにはいきません。とは思っても交通の不便な場所に行くにはやはりツアーが有難い。今回の木曽路の大妻籠は交通の便が悪いのです。バスはあってもJRと接続する便が少なくて、諦めていた場所でした。数年前に路線バスで通過した時にチラッと見ただけですが、坂道に古い宿場の面影が残っていて魅力的な気がしていつか行きたいと思っていたのに・・・。



カタツムリにはなれない

2024年05月21日 | 

植木鉢のバラ




郵便受けに地区の消防署からのチラシが入っていました。チラシの見出しは「南海トラフ巨大地震から生き延びる!」。内容は「消防署員がご自宅を訪問します。巨大地震から命を守るため、各家庭の『戸別訪問』を実施させていただきます。」と。さっと読んだだけでは何だか怪しげな気もする文言です。それでも訪問日が記載されていたのでその日は気にしていると、家からすぐの道路に大きな消防車が止まり消防隊員風の制服を着た数人が散らばって行き、しばらくするとわが家にも。怪しい人も「消防署の方から来ました・・・」と言うようですが、消防車で来られれば多分大丈夫。

戸別訪問の目的は・家庭の防災対策を聞き取り、必要な防災対策の提案なのだそうです。
・寝室に背の高い家具を置いていませんか?
・火災報知機、消火器はありますか?
・家具の転倒防止対策をされていますか?
私は寝室にはソファが1つあるだけですし、その他の質問もOKでした。が、消火器の消費期限が切れていたので買い直さねばとは思いました。

質問などは簡単に終わり「読んで参考にしてください」と袋入りのパンフレットをいただきました。お役所のパンフレットなんて面白くないと思いながらパラパラ見ていたら、エッ!???と座り直して見直すことになりました。
地図に色分けされた「液状化可能性大」の赤塗りの場所にわが家は入っているのです。震度予測も「震度6強」。

昭和19年(1944年12月)の東南海地震はマグニチュード7・9と言われていますが、今私が住んでいる場所に当時も住んでいた両親からも地震による被害は聞いた事がありません。名古屋城につながる台地ですし、縄文時代の住居跡や小さな古墳、江戸時代から現代までの暮らしの色々が地下に埋まっている場所です。「お城を造るくらいしっかりした場所だ」と言われてきたのに、今になって液状化の危険・・・と言われたって・・・。築40年の古びてきた木造家屋とはいえ大切な終の棲家と思っている家です。カタツムリのように家を背負って安全な場所へ移動するなんてできません。取り壊して作り直すほどの余裕もないですし・・・出来るのは地震が来ないことを祈ることくらい。他には何も思いつかないのも困ったことです。



カタツムリは見かけないけど庭のアジサイ 5/20


5月14日は「なごや平和の日」

2024年05月15日 | 名古屋城

名城公園藤棚と天守閣 2024 /5/15



昨日名古屋市からラインに送られてきた記事に5月14日は「なごや平和の日」とありました。
令和6年4月1日に制定された「なごや平和の日」名古屋空襲により犠牲になられた方々を悼むとともに、悲惨な戦争の体験・記憶を後世に語り継ぐことにより、市民の恒久平和の実現を希求する意識の醸成を図り、もって平和な社会の発展に寄与することを目的とする。
・・・そうなんだ、ニュースで聞いた気もするけどと思った私です。その5月14日は60年前の空襲で名古屋城が焼失した日です。



北川お堀から 2024/5/15



以下はその他の記事から当時の空襲の記録の一部を抜粋しました。
アメリカ陸軍航空軍の公刊戦史によると、1945年5月14日サイパンやグアムを出撃したB29爆撃機は524機、午前8時5分から80分間に2515トンの焼夷弾を投下しました。攻撃目標は「名古屋城周辺」などとして城を右旋回する形で人口が密集する5か所に設定。目標ではなかった名古屋城は巻き添えになったらしい。
その後も終戦までに2600機の爆撃機の飛来があり、60回ほどの空襲で死者7800人以上、被害戸数13万5千戸以上と言われています。


現在の名古屋城天守閣は戦後再建されたコンクリート製で、耐震基準に合わず現在は立ち入ることが出来ません。
天守閣が燃えた日、私が生まれた家も焼夷弾の直撃で焼けました。町の警防団の数人と父が消そうとしましたが、木造家屋をバケツの水では消すことが出来ず諦めて隣家の消火へ。その隣家は1部を焼いただけで今も残っています。家が焼ければ庭石も焼けていくつもひび割れて残っていますが、庭木の1株は根元から再び芽吹いて今わが家の庭に茂っています。石よりもずっと弱そうな植物なのに強いのです。空襲のあったその日、私は母と郊外に疎開していて無事でしたし、兄や姉も学童疎開に行っていたり工場の動員などで皆無事でした。

それから60年経った2005年愛知万博の時わが家に泊った中国からの留学生を名古屋城に案内したことがありました。「名古屋城が燃えたのは戦争ですか?日本も戦争で燃えたのですか?」と聞かれたり「奥さん(私の事)の子供の頃の写真を見せて」と言われて「戦争で燃えてしまったから無いの」と言えば皆さん驚いていました。

日本にもそういう時代があったのよと、日本の子供たちにも伝えなければ時代劇の合戦と同じような歴史の中の出来事になってしまうかも。いえもうなっている気もします。6月23日、8月6日、8月9日、8月15日も、すでにあるのですけれど・・・。それでもまだ、体験者が生きているうちに「平和の日」に語り合ったり、考えたりする日があってもいいかな、などと1人考えていた14日でした。



2024/5/24   5:23

第22回彩青展(3)

2024年05月13日 | 彩青展











会場展示の一部です。




12日無事に「彩青展」の会期を終えることが出来ました。遠方からの応援も有難うございました。
絵を額に入れ壁に飾りスポットを当てるとどの作品もよそ行きの顔になり、出品した方達もいつもよりちょっとおしゃれして来場者を迎える。この1週間、市民ギャラリーのこの1室は私たちの特別な空間です。和やかにおしゃべりしながら過ごす時間を持てることの幸せをかみしめていました。

6日間の会期の来場者は834人。コロナで展覧会を休止した2年間が過ぎてからの開催は3回目、少しずつ来場者が増えてはきましたが、コロナ前には千人以上だったことを思うとまだまだ以前のような賑わいではありません。5月の良い季節に会場の市民ギャラリー11室のうち3室は閉じられたままなのも以前なら考えられないことです。でも「また来年、すぐ1年過ぎますよね」と皆で話しています。

他の部屋で出品されている方に何度か「小さな絵もいいですね」とお世辞だけとは思えない言葉をかけていただきました。「公募展なんかに出すときは50号くらいは描かないといけないけどもう疲れて来てね。これからは小さな絵を描こうかしら」と。他人の物差しを気にしなくてはいけない公募展を目指す絵、「芸術」を目指す絵とただ楽しむためだけの私たちの絵は初めから目的が違います。そして芸術家ではないことが幸せだと思いました。

最終日に会員の方が習われておられる英語の先生が来場されました。アフガニスタン系のアメリカ人の女性です。名古屋の大学に来られたご主人と一緒に来日されて40年以上、日本語もとても上手な方です。ご主人は早くに亡くなられてからもご主人の遺志を継いで「セーブアフガンチルドレンの会」の理事長・代表としてアフガニスタンに貧しい子供のための学校建設と維持に力を尽くされておられる方でした。「皆さんのお力で学校は2つ出来ました」と。講演や通訳などをされながら資金の援助を続けておられるそうです。3人のお子さんはアメリカに住まわれていても「私は日本が好きですからずっとここにいます。」と。小柄で優しい感じの中に眼の力強さが印象的な方でした。

お話を聞きながら思い出したのは二十数年前の事、絵の同好会でTさんが「貧しい国に子供のための学校を作る資金を集めている方が有るの、その奥さんにモデルをお願いして皆で寄付もしたらどうかしら」と言われてモデルをお願いしたことがありました。民族衣装に身を包んだ堀の深い顔立ちのモデルさんに人物など描いたことは無い私たちは苦戦しましたが・・・。その時の話とあまりに似ているので「実は・・・」と聞いてみると「色々なところでモデルになりました」ですって。びっくり!しかしあの時はバングラディッシュ出身の方だったような…記憶違いかとも思いますが。家に帰ってその時の絵を探したのですが見つからないのが残念。あまりに下手で処分したのかもです。こうした展覧会場での思いがけない出会いも楽しみの一つです。

6月からはまた来年の会場申し込み場始まり、これからの1年もきっと早いはずです。








「第22回彩青展」はこれで終わります。

第22回彩青展(2)

2024年05月10日 | 彩青展

「奥嵯峨鳥居本」私の作品 
和紙 F6サイズ



彩青展初日の朝は強い雨と風でしたが、その後は土曜日まで晴続きの予報です。今日から後半、あと3日。
晴れた2日目から来ていただける方も増えて、毎日夕方まで会場で久しぶりにお会いする方達とお喋りしています。1年振りにお会いして変わらずお元気な方、あらっ!と思うほど弱られた方もいらして・・・杖を突かれるようになられたり奥様に見守られながらも、来ていただけることは有り難いこと。「また来年・・・」と次につながることは希望がつながりお互いに元気の元だと思えます。









昨日は朝1番にお1人で日本を旅行中のアメリカの女性の方が来てくださって、英語の分からない私は受付でオロオロでしたが、他の方に通訳して頂けてヤレヤレ。ご自分も絵を描かれ北斎や広重が好きであちこち回っておられるとのこと。「アメリカに絵を描きに来てください」と言われたような・・・たぶん・・・。日本語は全く分からず英語とフランス語だけで日本を1人旅、60歳前後かなと思われる小柄な方、凄いなぁとただ感心してました。


私の今回の作品は全て京都奥嵯峨鳥居本。京都市内といってもほとんどの方がご存じないのですが、たまに「ここはいいですよね。よく行きました」とか「愛宕神社も登って参拝しました」という方達もいらして鳥居本の話がはずみます。
会場のテーブルには小さな絵を邪魔しない小さな花を飾っています。これが毎年好評で、帰られるとき「お花も素敵ですね」と。お庭で咲いた珍しい花も多く花の好きな方達と花談義も楽しいことです。2人の会の方が花も用意して活けて下さっています。









第22回彩青展(1)

2024年05月08日 | 彩青展




「愛宕街道一の鳥居」ハガキサイズ



珍しく強く描いてみましたが・・・


昨日7日、展覧会初日は朝から強い風と雨。午前中は大雨にも注意するようにとの予報でした。心配した雨は昼頃には上がり風も収まりヤレヤレの出だしとなりました。いつも初日に来ていただける方達にもお会いできて(ブロ友さんも)楽しく過ごせた1日目でした。

前日の5月6日午後「彩青展」の搬入。例年と同じように額屋さんのGAROさんにお手伝いいただき、出品者ほぼ全員でワイワイ賑やかに飾り付け。あらかじめ籤引きで出品者ごとの展示場所を決めてあるので、問題なさそうなのですが作品の大小、強弱とかテーマとかお隣との釣り合いなど・・・皆で意見を出し合いながら移動する。一人分を動かすとまた問題が起きてまた・・・と、それも約2時間で毎回すっきり纏まります。「全員が参加して展覧会を作ることが大切です」とは私の恩師の言葉です。で、毎年ワイワイガヤガヤ搬入が恒例です。

今年の私の出品は3点、案内ハガキに載せた絵と他2点も共に京都府京都市右京区嵯峨鳥居本の絵です。 京都では昔から「伊勢は七度、熊野は三度、愛宕参りは月参り」と言われ、愛宕街道は火伏祈願の愛宕神社に詣でる「祈りの道」なのだとか。しかし愛宕神社に参詣するには往復4~5時間の登山を覚悟しないといけないらしいので、私には無理。昨年12月に登山道の手前にある一の鳥居までの「国の伝統的建造物群保存地区」の街並みを楽しんで来た時のスケッチと写真をもとに描きました。 ここを知ったのは京都在住のブロ友さん「新旧鉄道と風景のあるブログ」からでした。魅力的な街道のご紹介、有難うございました。

「愛宕街道」ハガキ5枚セット













私の出品作もう1点、会場風景などはまた後日アップします。


 


今日だった・・・

2024年05月03日 | 

いただいたバラ



今日は2024年5月3日、ちょうど60年前1964年5月3日は私の結婚式の日、今年はダイヤモンド婚らしい。と言っても夫は旅立ってもうすぐ9年。私の気持ちの中だけの日です。あの日の結婚式場の前庭では満開の牡丹が見事でした。それが地球温暖化のせいか牡丹などとっくに散ってしまっています。60年・・・私も世の中も季節さえも変わったのです。60年後一人暮らしをしながらパソコンでブログを書いているなんて、想像もしませんでした。

そんな事を思っていた今朝のこと、87歳になる姉から「今日の朝刊の『つれあいにモノ申す おひとりさま編』に載ったから見て」とラインがありました。姉は時々投稿を楽しんでいます。46年前にご主人を無くして3人の子供を育て・・・そちらに行っても「そんなばあさんに知り合いはおらん」と言わないで、口元のほくろは変わりません」と亡くなったご主人にモノ申したのです。

私の夫は、白髪と短髪が嫌いでしたから私はいつも早めに毛染めしていました。それが毛染めをしなくなって5年ほど過ぎほぼ白髪で短髪。いつの日か向こうに行ったら「そんな白髪で髪の短いばあさんは知らん」と言われるかも。でも、毎日お仏壇から眺めても文句の一つも言いませんから、もう見慣れたのだろうとは思います。
60年・・・カッコよくブログを纏めたいのですが、長かったような、あっという間だったような、なんてあたりまえの言葉しか浮かんできません。


5月はバラ
わが家のバラ「空蝉」



実物は気品のあるバラですが・・・


※しばらくコメント欄お休みします

第22回彩青展のお知らせ

2024年05月01日 | 彩青展





毎年5月の連休が明けると「彩青展」開催です。今年はコロナも収まり無事に22回目の展覧会を開くことが出来ることになりました。教室の25名のお仲間が1人4点ずつ出品、はがきサイズからF6までの小品ですが心を込めて楽しみながら描かれた作品ばかりです。お近くの方でお時間があれば是非お越しくださいませ。ギャラリー隣には中日ビルが新しくなり先週開業しました。新しいお店など見物のおついでにも。


私の出品は案内ハガキの「奥嵯峨鳥居本」ハガキサイズと他2点。
奥嵯峨鳥居本は京都嵐山から北へ5キロほどの所です。出かけたのは昨年12月、街道の雰囲気がとても心に残る場所でした。

展覧会が始まりましたら、出品作や会場風景などアップさせていただきますので、遠くの方にはご覧いただければと思います。

※ コメント欄お休みします

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