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「震災のおぞましさ遺体に集約されている」 母の遺体を子が眺める津波の現場

2011年12月22日 07時01分13秒 | ニュース
 「震災のおぞましさは"遺体"に集約されている」――。東日本大震災から9ヵ月。無慈悲な災害に遭ったとき、人間は自然にどのように翻弄されるのか。2011年12月19日に放送された「ニコ生ノンフィクション論」では、東日本大震災の津波で実姉を亡くしたノンフィクションライター・生島淳氏と、岩手県釜石市の死体安置所で取材を重ねた作家・石井光太氏が、報道では伝えきれない震災・津波の無残さを現場を見てきた者の声として伝えた。

 石井氏は震災後数ヶ月間、釜石の遺体安置所に身を置きながら、津波に飲まれた遺体とそれを迎える遺族と向き合った。「瓦礫の上や車の中で見つかった遺体が多かったから、最初は綺麗な遺体が多かった」。石井氏によると、問題だったのは死後硬直だという。

「(車を運転して津波に飲み込まれた人は)椅子に座ったまま死後硬直していた。流されまいとして木につかまったまま死んでいるとか。赤ちゃんを抱いたまま死んでいるとか。そういう状態だった。死んだ瞬間、ロウで固まらせて横になっている状態だった」
 そのままでは死体の検案も、棺桶に納めることもままならかったと石井氏は淡々と語った。また石井氏によると、津波に流された母親の遺体が木にひっかかり、それを子どもが下から眺めている光景にも出くわしたという。

「津波が5メートルとか10メートルの高さになると、そこへ流されて、ひっかかったまま水が引いちゃう。そうすると降ろせない。木の下は瓦礫の山だから、脚立も置けないし、木に登ることもできない。死体を降ろしたところで、何キロと続く瓦礫があるから運べない。警察を呼ぶこともできない、携帯も通じない状況の中で(木にひっかかった母親の遺体を)見ている子供がいた」
 「辛かったのは」と石井氏は声を少し落としながら続けた。「その子供が『うちのお母さんじゃないかも知れないよ』と言っていたこと」。

 石井氏は、東日本大震災について「遺体とどう向き合うのかという大きなテーマを出された。結局、津波は家を建て直せばOKという話じゃない。津波は人を殺すから怖い」と語り、形だけの復興ではなく"死"をどう乗り越えていくかが大切であると語った。

■気仙沼に消えた姉を追って

 ノンフィクションライターの生島氏は、気仙沼を襲った津波で姉を失った。3月11日午後3時41分発のJR大船渡線で東京に出てくる予定だった姉から、「今日は行けなくなったので、明日行きます」と安否確認を知らせる電話が入ったのは、午後3時26分。東日本大震災の発災から、およそ30分が経過していた。その後、姉とは連絡が取れなくなり避難者名簿にもその名を見つけることがない。「電話会社がすべて繋がったのは、3月18日だった。『それで連絡が来ないということは』と覚悟を決めた」と生島氏は当時の心境を語る。

「5月8日に(姉の)遺体があがった。顔の写真を見ても分からなかった。残念ながら、顔が水膨れの状態だったんで、僕の兄弟含め、(姉の子供である)姪、甥も、写真だけでは確認するのは難しいと言っていた・・・。(最終的に)姪が歯形の特徴を見て『母ではないかと思います』と言った時に、僕も姉であると確信した」
 その後、残された血縁者(兄弟及び娘)からDNAを採取し、遺体が姉であるとの鑑定結果が報告されたのは、9月21日であったそうだ。遺体が見つかってから、実に4ヶ月の歳月を要したのである。

「DNAを採取した日は、姉の葬儀だった。お骨がない葬儀というのは寂しいものだなというか、気持ちの区切りがなかなか・・・。震災だけでも(区切りが)付けづらいのに、何か核になるものがないなと感じていたんで、見つかってほんと良かったなって」
 生島氏の姉の夫(義兄)は、今もなお行方不明のままであるという。

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