実験科学であると同時に精密科学であることは可能だろうか~?例えば、もし仮に幾何学が実験科学であるとして、幾何学に誤差があることを納得できるだろうか~?
— 瀬下 幽玄 (@undershallow) 2018年1月24日 - 00:02
幾何学の公理は扮装を着けた定義にすぎない。それではユークリッド幾何学は真であるか、という問いを何と思考すべきであろうか。この問は何も意義を有しない 。-ポアンカレ
— 瀬下 幽玄 (@undershallow) 2018年1月24日 - 00:08
一つの幾何学が他の幾何学以上に真であるということはない。ただ或る幾何学が他のものよりももっと便利であるということがあり得るに過ぎない。-ポアンカレ
— 瀬下 幽玄 (@undershallow) 2018年1月24日 - 00:11
政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一とかけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。 (プラトンの「国家」)
— 小林秀雄 botcast (@hideKoba_bot) 2018年1月24日 - 08:05
永続する組織は、よい検閲装置をもち、情報処理に多くの関心を向けるものである。しかし、そのプロセスは神経過敏の傾向を生み出す。 (マックニール『紛争の科学』)
— 現実主義bot(リアぼ) (@riarisuto_bot) 2018年1月24日 - 10:07
戦争は、帝国主義的基礎にもとづいて労働問題を解決することができないのである。それどころか反対に、戦争はこの問題を先鋭化させ、資本主義世界に対し2つの可能性を提起するのだ。すなわち、永続戦争か、さもなくば革命。(戦争とインターナショナル)
— トロツキーbot (@trotskybot) 2018年1月24日 - 02:08
「中には、いろいろな役目につくごとに新しい顔つきと新しい人間に変形し変質する人がいるし、肝臓や腸まで司教になり、その職務を便所にまで引きずってゆく人がいる。こういう人には、本人へのお辞儀と職務やお供や騾馬へのお辞儀は別だということを教えることは不可能である。」(モンテーニュ)
— モンテーニュbot (@MontaigneBot) 2018年1月24日 - 10:14
一樽の知恵より、一滴の幸せ。ことわざ
— 古代ローマ名言集 (@RomensWord) 2018年1月24日 - 08:03
辻褄の合わない人間...!といったら言いすぎかもしれないが……だいじなのは、そんな人間を行動にかりたてるのは、たんなる利害の理由ではない、ごく普通の言いかたをすれば、そんな人間は利害関係の動機に
— ジッドbot (@Gide_bot) 2018年1月24日 - 08:16
従わないということですよ。『法王庁の抜け穴』
ノーベル賞学者の山中教授でさえクラウドファンディングに頼らざるを得ないほど資金繰りに苦労するような本邦が没落するのは当たり前で、だからこそ教育投資の拡充によって自由に研究出来る環境作りが必要であるにも関わらず、愚かな現政権は一時的に産業資本が潤う短期的な成果を大学に要求する始末。
— 異邦人 (@Beriozka1917) 2018年1月24日 - 08:30
「強者と弱者の間では、強きがいかに大をなしえ、弱きがいかに小なる譲歩をもって脱しえるか、その可能性しか問題となりえないのだ。」(ツキディデス『戦史』)
— 現実主義bot(リアぼ) (@riarisuto_bot) 2018年1月24日 - 08:07
他人の意見と対照して、自分の意見の間違いを正し、足りない部分を補う。これを習慣として定着させよう。そうすると、意見を実行に移すときも、疑念やためらいが生じない。それどころか、この習慣こそが意見の正当な信頼性を保証する、唯一の安定した基盤なのである。-自由論
— ジョン・スチュアート・ミル (@jsmill_bot) 2018年1月24日 - 08:01
義人であるためには、裸で、死んでいなくてはならない。なんら想像上のことでなく。だから、義の模範となる人は、裸で、死んでいなくてはならないのだ。ただ十字架だけは、想像上で模倣することがゆるされない。
— Simone Weil (@simoneweil_bot) 2018年1月24日 - 10:03
(かたえくぼ)給料日:朝日新聞デジタル
— 瀬下 幽玄 (@undershallow) 2018年1月24日 - 18:05
思いきって野菜鍋にしたわ
――やりくり主婦 (越谷・みっちゃん)
asahi.com/articles/DA3S1…
菜っ葉ばっかり食ってたからな~、そら健康にえーやろな~!?
シャドウキャビネットを組閣できますか~?#立憲ボイス
— 瀬下 幽玄 (@undershallow) 2018年1月24日 - 18:09
我々の感覚は、どれ一つをとってもそれが離れ離れであれば、我々を空間の観念に導き得ることはないであろう。我々が自然とその観念に到達するようになるのは、ただこれらの感覚が相継いで起こるときに従うべき法則を研究することによるのみである。-ポアンカレ
— 瀬下 幽玄 (@undershallow) 2018年1月24日 - 23:14
結局、我々の認識も、我々の肉体の構造に依存している。例えば、我々が空間を3次元であると認識するのは、両目が正面に付いており、奥行きを感じる(測る)ことができるからである。もし仮に、両目が正面ではなく左右の両側にに夫々一つずつ付いていたら、空間は2次元と認識するだろう~!?
— 瀬下 幽玄 (@undershallow) 2018年1月24日 - 23:24
それにしても、時間の認識は何処から来るのだろうか?おまけに、時間には方向があり、過去から現在を経て未来へと流れる、と認識する。今現在に存在する(と思っている)我々は、過去を思い出しても未来を思い出すことはない。何故か?不思議である。
— 瀬下 幽玄 (@undershallow) 2018年1月24日 - 23:31