会社や組織は手段であって目的ではない。それがいつしかそれ自体目的となる。人は幻想を見るばかりでなく倒錯した世界を生きるのである。
人間の場合、大方の問題は行動すれば解決できるが、他方で人間は考えなければ解決できない問題も抱えている。実際、形而上学の問題や数学、理論物理学等の問題は行動しても解決できない。何故なら、その様な問題は抑々行動の対象ではないからである。
人の行動はその背後にある物質的諸条件が何かを知ることが分析上の鍵である。一見不可解で時には奇怪な行動もそれを知って仕舞えば一瞬にして氷解する事があるのである。
人は徐々にしか学べないものだ。従って、タフで粘り強い人が最後に勝利を収める。鋭いがスタミナの無い人の勝利は、飽く迄短期的、部分的な勝利であるに過ぎない。
迷惑メール来たら、meiwaku@dekyo.or.jp のアドレスに転送して、本文の文頭に「受信月日」「迷惑メール送信者のアドレス」を書いておくと総務省が行政処分してくれるんだって!最近多いもんね!
魯に三度も戦場から逃亡したものがいた。仲尼がその訳を尋ねると「私には年老いた父親がおり、私が死ぬと養うものがいなくなる」と。仲尼はこれを孝として昇進させたので魯の国では民衆は平気で敵に降参するようになった。父にとっての孝子は君主にとっては逆臣だ。仁義を行うようなものは誉めるな
二位に甘んじることは敗者の一位になることと同じだと言った人がいるらしい。方や一番でないと駄目ですか二番じゃ駄目ですかと言った人もいるらしい。要するに、これらは価値観の相違であるから、両者の意見は噛み合う事はないのである。
フッチーのblogを更新しました! フッチーのblog : 26日の日記 blog.livedoor.jp/futchy3/archiv…
自分の力を試してみたいというのは、競争相手を打ちのめしたいというのと略同義である。何故なら競争という闘争の一形態は常に自分と競争相手とのあらゆる比較の上に成り立っているからである。
人は高みを目指してこそ能力の限界を知る。才能は神が人に与えるものであるが、高みを目指して努力するかしないかは、飽く迄その人次第である。
人類を滅亡から救うものがあるとすれば、それは飽くことなき合理性の追求のみである。ホモ・サピエンスの知能はその為に備わっていると言うべきである。