老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

一杯の味噌汁

2024-02-07 20:59:58 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2027 乗り遅れそうな乗客を待つバスの運転手



味噌汁は“おふくろの味”ともいわれ、家庭によって味が違う。
三木春治さんにとって家庭の味といえば妻志乃さん(77歳)がつくる“味噌汁”であり、元気の源でもあった。

しかし、桜の花弁が散る4月の或る日の朝の出来事。
春治さんは、今日の朝 起きてみると腹が脹れ(はれ)あまり朝食を食べたいとは思わなかった。
けれども、妻が想いをこめて作ってくれた豆腐入りの味噌汁を味わった。
ご飯は茶碗半分余り残し箸を置いた。

どうもお腹の脹れと胸のあたりが急にむかつきはじめ苦しくなり、食卓にうつ伏せ状態になり倒れた。
救急車で病院に搬送されるも 力尽き永眠された(ご冥福をお祈り申し上げます、78歳)。
昨日まで元気な様子であっただけに、突然の訃報は驚きと同時に深い悲しみを抱いたのは、わたしだけではなかった。

春寒し2月の頃、三木さんのお宅を訪問したときに春治さんと出会った。
そのとき彼は「自分が元気になれば、妻の手伝いをしたい。雪かけや野菜作りをしたいと、
生活への意欲と希望を抱いていた。
志乃さんは春治さんと54年間ともに生きてきた人生を振り返り、
彼の人柄についてしみじみと語ってくれた。

彼はトラックの運転手をされた後、路線バスの運転を24年間務めたときのこと。
「バスが発車する時間になっても、いつも乗車されているひとりの女子高校生がまだ来ないため、五分間待つことにした」。
その女子高校生はバスが待ってくれたことに“泣き”、
感謝の気持ちをいっぱいにし、学校へ行くことができた。

時間に遅れる方が悪いし“時間の大切さ”を自覚させるためにも時刻表とおりにバスを発車させた方がよい、という考えもある。
しかし、その時間に乗り遅れたら都会みたいに数分後にバスはやって来ない。
「バスが発車する間際、急いで駆け付けてくるお客様の姿が、バックミラーやサイドミラーに写るのを見たとき、
バスを出さずに待っていてくれたことも度々あった」と、
妻は、スーパーで地域の人たちから話を聴くことも多かった。

病いを患ってから4年余日が過ぎた春治さん、愛妻が作ってくれた一杯の味噌汁を忘れずにいることと思う。


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数年ぶりの30cmを越える積雪

2024-02-06 20:36:02 | 阿呆者
2026 雪かきができない躰力



茨城県筑西市から東北自動車道経由で白河の関を越え東北の玄関口の地に着いた。
積雪30cmあり、数年ぶりの雪雪でした。

揺れる車中、スマホで『老い生いの詩』を操作していたら
昨日のブログのコメントを書き終えとところで
車の振動で指先が狂い消去されてしまい、茫然(ぼうぜん)となった。
不慣れなことはするものではない。

小さな平屋(30坪、築15年)の小さな庭は30㎝の雪。
心臓に負担がかかり、躰力もなく雪かきは「出来なくなった」。
wifeは自分と同じ屋根の下で生活する前までは雪かきがしたことがない。
いまは雪かきは手慣れてきた。



読売新聞日曜版のトップ記事に
旅を旅する、だったかな
城崎温泉の写真が掲載されていたのをスマホで「パシャリ」した。

明日から介護の世界に戻る。
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遙かな旅の夢

2024-02-04 11:59:14 | 老いの光影
2025 鉄線はつづくよどこまでも




鉄塔の隙間から筑波山を眺める

遙かな先の線路は終着駅
遙かな先の路は終点(行き止まり)
遙かな先の海は帰港地
遙かな先の鉄線は我家の電燈

始発点の先は終着点
オギャ〜と産ぶ声をあげた先は死
そう考えてしまうと虚しくなってしまう

キッズソング | せんろはつづくよどこまでも | 童謡 | I've Been Working on the Railroad (coverd by うたスタ)

線路は、はるかなまちまで ぼくたちの
たのしい たびの ゆめつないでいる

『せんろはつづくよどこまでも』の詩は
遙かな先きまで夢をつないでいる。
夢は無限である。
オギャ〜と産ぶ声をあげた赤ん坊は無限の可能性を秘めている。

線路も路も海も鉄線も
遙かな先の町は
どんな処か想像してしまう。

こどもごころの頃
山の向こうはどんな風景なのか、と想像していた。

どこまでもつづく鉄線を眺めてると
そんなことを思ってしまった。

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義父の一周忌

2024-02-03 18:01:32 | 阿呆者
2024 家に帰ったよ


筑波山が見える関東平野、鉄塔が立ち並ぶ

昨日は事務的な仕事に追われて、筑西市(茨城県)に帰るのが遅くなり21時前に着いた。

wifeの父の一周忌法要。
「家に帰ったよ」、帰ってくるような感じさえする。。
短い時間ではあったが最後は寝たきりになったものの
自宅の畳の上で妻、二人の娘と大の親友に看取られながら逝った。

別れの言葉を交わし、穏やかな顔だった。

実家(wife)から福島に帰るときは「気をつけて帰れよ」といつも言葉をかけてくれた。
「パチンコに行こう」、と誘う。
不自由ながらも杖をつき歩き
軽トラに乗りパチンコ屋に向かった。

二人とも大当たりはなく損したまま帰るも、楽しかった。


筑波山

朝夕合わせて100分余りの散歩。
夕暮れ前の筑波山を眺め見る。
旧下館市は第二の故郷。
関東平野は閉塞感がなく、開放的な気持ちになる。

冬は空気が澄み渡り白い富士山が見える。
見えたときは合掌する。


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「奇跡だ!」、と言われた85歳の老女

2024-02-01 21:45:11 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2023 眠りから蘇生(よみがえる)



疲れると頭が機能しない
「何も書くことがない。今日のブログはお休みかな」、と
さぼり癖が見え隠れする。

ふと、思い出した。
今日15時30分、在宅訪問をした。
主役の85歳の老母は入院中で会うことができなかった。

同居している夫(85歳)と長女に会った。
近々老母は「家に帰りたい」、と主治医に懇願し2月5日に退院することになった。
2月6日から火木土の透析治療のため、介護タクシーの利用を始める(移動支援にかかわらせて頂くことになった)。

糖尿病が原因で人工透析となり3年が過ぎた。
昨年8月の或る日、歩ていても躰が左に傾いてしまう。
透析治療を受けている病院の医師から「脳腫瘍ではないか」と告げられ入院となった。

脳腫瘍の手術を施行しようとしたとき
血液サラサラの薬を止めて3日しか経過していないことがわかり、急遽手術は中止になった。

脳外科医から「脳腫瘍ではなく脳梗塞だった」、と告げられた。
手術は成功したが、老女の意識は回復せず眠りのなかにあった。

それから老女は、3月ご眠りから目が覚めた。
主治医も意識が戻るとは思っていなかったことだけに
「奇跡だ」、と話された。

脳梗塞を起こした部位は、運よく四肢の麻痺が起こる場所ではなかったことも「奇跡だった」。

その老女は眠りから蘇り、生き始めた。
眠っている3月間の記憶はすっぽり抜けたまま。
85歳の命が蘇生った(よみがえった)老女に会うのが楽しみだ・・・・・。


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家に帰りたい

2024-01-31 21:21:56 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
2022 戦争を知る老人たちの思い



冬の厳しさを知っているものほど、春を待ち焦がれている。

それと同じように、さまざまな事情で家族から離れて老人保健施設などで生活している老人ほど、
家庭復帰を待ち焦がれている者はない。

「家なき老人」にしてみれば、
「春」という言葉と「家族(家)」という言葉は同義語なのかもしれない。

平成2(1990)年4月に入所した関かねさん(86歳、頚椎症による歩行障害、脳血栓、糖尿病)も
いつ来るともしれない春に思いを寄せている一人である。

一度、こんなことがあった。
その年の12月、正月の外泊をひかえ、面会に来た長男(56歳)に対して、
1泊でもいいから外泊したいという強い気持ちがありながらも、
とうとう言えずじまいに終わった。

なぜ、率直に外泊したいと言わなかったのか。
家族に気兼ねしている理由はなんなのか。
わたしは、まだかねさんの気持ちをつかめないでいた。

それから2ヶ月が経った。
「かねさん、今日息子さんが見えますよ。家(うち)に帰りたいって、わたしから言ってあげましようか」、と
親切の押し売りをしたところ、
「家に帰りたくない」と力弱に返ってきた。

「どうして帰りたくないの?」と意地悪な質問をすると、
「2,3日間だけなら家に帰りたいけど・・・・、でも、またここにいられるようにしてほしい。
長男の嫁は、30年前に階段から落ちたことが原因で、そのときにきちんと治療しなかったこともあって
腰と両膝が悪く、やっとの思いで歩いている。とても面倒を看てもらうなんてできない。
だから、ここに置いてほしい」と心情をうちあけた。

「家に帰りたくない」という言葉には、
「帰りたいけど、帰ることができない」という
かねさんの思いが隠されていたのだ。

入所相談をしていて思うことは、言葉の表面だけをとらえていてのでは、
人間のもつ言葉の深さとその人の思いを理解することはできないということである。

かねさんは、自分自身の存在を家族から引き離し、否定することによって、
病弱な嫁の体を守り、家族の生活を保たなければという、辛い思いのなかで黙していたのである。

長男との面会を終えたあと、彼女は亡き夫の思い出や子育ての苦労話などをしみじみ語ってくれた。
「夫は13年前の12月20日に脳卒中で倒れ、一月後に亡くなった。
そのときは、自分は糖尿病で入院していたので、傍に居て看病してやれなかった。
そのことが辛く、心残り・・・・。
でも、夫と築きあげてきた味噌・醬油づくりの仕事は、いま、孫が跡を継いでいるので安心。(中略)

長い人生のなかでいちばん辛かったことといえば、戦争です。
30代後半のとき、夫が出征し、16歳から2歳までの4男2女の6人子どもを抱え、
3年間女手ひとつ、生活のやりくりと子育ては大変だった。
あのときはどこの家も貧しくて、いまの若い人たちにできるかどうか・・・・。

戦争が終わり、夫が突然家に帰ってきたときは、ほんとうに嬉しかった」。

作家の井上靖さんのふみ夫人も、かねさんと同じようなことを記していた。
「57年いっしょに居て、思い出はたくさんあるけれど、いちばん嬉しかったのは、戦争から無事に帰ってきてくれた」ことである。

かねさんもふみさんも、戦争の悲惨さ、戦争による肉親との別れや再会の体験をしているからこそ、
辛苦と歓喜の思いは、人一番強いのかもしれない。

明治・大正生まれの女性は、忍耐と犠牲の生活史であるがゆえに、
耐えていく、自分を抑えていく術を知っている。
戦前の家制度と度重ねる戦争によって、忍耐の精神とその生活を身にしみるほど知っているから、
かねさんは、人生の最終章に入っても「家に帰りたくない」と呟いたのかもしれない。

「ここに来たころは、わずかではあったが、なんとかつかまりながら歩けた。
いま、歩けなくなった。歩けなくても、せめて立つことができればと思う。
トイレで用足しができれば最高なのだが・・・・・」。

かねさんは、諦めと希望の交錯した思いを語って、その日の話を終えた。

かねさんの「家に帰りたい」という願いは、どうしたら実現できるのか。
K老人保健施設では、家庭復帰に向けての取り組みがはじまったところである。
「闇」のなかに「光」を求めるように、家庭に帰る希望を最後まで失わずにいたいものである。

1989(平成元)年1月に茨城県で最初にできた老人保健施設に生活相談員として、老人介護の世界に足を踏み入れた。
かねさんのことは1990(平成2)年に書いたもので、いま、読み返すと「何と大雑把な介護にたいするとらえ方で、恥ずかしくなってしまう」。
当時、老人保健施設は、病院から老人保健施設に移され、リハビリをして「家に帰る」といった中間施設であった。
しかし、現実的には「家に帰れる老人」はわずかであった。

かねさんの思いをどうとらえ、かねさんの思いを深め希望につなげていくことができなかった。

かねさんは、戦争で辛い体験をし耐えてきたことを思うと、
自分は「家に帰りたい」けれど施設で生活することの寂しさは耐えることができる。
自分が家に帰ると、自分たち夫婦が築いてきた味噌・醤油の製造業ができなくなる。
家に帰らないで施設で生活するしかない。


歩けなくても、せめて立つことができればと思う。トイレで用足しができれば最高なのだが・・・・
いまならば、歩けなくても、ひとりで立ちトイレで用を足すことができる、介護実践を身につけているので、
かねさんの願いを叶えることができる。
当時は未熟で、トイレで排泄をする、という考えも及ばず、布おむつ全盛期で、ベッド上で定時交換であった。

あれから36年が経ち、施設介護から、いまは在宅介護の現場にいる。成長が余りないまま時間だけが流れていった。
最後の最後に来ても、まだ老いとは、生きるとは、死とは、未だに問い続けている。
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111歳のサタおばあちゃん

2024-01-30 18:51:27 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
2021 長男が味噌汁を作ってくれたことが 一番うれしかった

サタおばちゃんが話してくれたこと

 私は、108歳の頃まで
汗が流れるほど暑い夏の季節であっても、木枯らしが吹く寒い冬の季節であっても、
毎日欠かさずシルバーカーを押しながら1時間余り散歩することを楽しみにしてきた。

私は、明治41年10月22日、茨城県(旧)下館市五所村に生まれました。
子どもの頃は、弟たちを背負い、着物と下駄で尋常小学校に通ったこともありました。
尋常小学校4年の2学期まで通いました。
その後17歳まで家事手伝い、18歳から農業を行ってきました。

19歳のときに安達善一のもとに嫁ぎ、農業に従事しました。
結婚後、1男5女の子宝に恵まれ幸せでした。

夫にも赤紙(召集令状)が届き、戦地に赴き(おもむき)ました。
留守を任されていた私の心は、いつも夫のことが心配であり無事を祈っていました。
しかし、南シナ海で敵の攻撃に遭い船は沈没し、昭和18年1月14日還らぬ人となり、目が真っ暗になりました。

これから女手一つで、上は13歳、下は父親の顔を見たこともない乳飲み子まで、
6人の子どもを育てなくてはならなかったのです。

それこそ毎日、朝から晩まで脇目もふらず必死に畑仕事をしてきました。
それでも何とか食べていける程度でした。
何より毎日畑に出なくてはならなかった私は、
子どもたちと出かけることは一度もできず、
本当に申し訳なく悔しかったことを覚えています。

ある冬の日のことです。
公用でどうしても役場に行かなくてはならず、用を済ませて家に帰ってきた私に、
長男が「母ちゃん、寒かったろう~」と、普段したこともない料理をして、お汁を作ってくれていたのです。
本当にうれしく泪(なみだ)がこぼれました。

日頃どんなに疲れていても子どもたちの笑顔をみると、
疲れは一瞬で吹き飛んでしまい、
長年頑張ることができました。
本当に子どもたちは私の大切な宝です。

生きてきたなかで一番思い悩んだのは、5人の娘たちのことでした。
恋愛結婚ならば、娘が自分で「良い男性(ひと)だと思って嫁ぐからよいのだが、
見合い結婚した末娘の方(wifeの母)が心配でした。
夫が傍にいれば相談もできたのだが、「あれでよかったかどうか悩んだ」こともありました。

どの娘の夫もアル中でもなく、夫婦円満に暮らしてきたので本当によかった、と思います。

現在、一番頭の長女は89歳、末っ子の五女(妻の母親)は76歳になります。
夫の月命日14日には、子どもたちそれぞれが、思い思いの手料理を持ち寄りながら実家に里帰りをしてくれます。
私を囲みながら賑やかに話をしたり食事をしたりなど楽しく過ごしてきました。
どの子どもも親孝行で、本当にありがたく思います。

長生きの秘訣は、腹八分ではなく腹七分、
のん気な気持ちで、いつまでもくよくよしないこと、
早寝早起きの生活(規則正しい生活)をしてきたことかな。 

昭和20年代後半の自転車は、現代でいうならば自動車のかわりでありました。
自転車があると実用性があって便利だったけれども、ケガをしたら大変だから乗りませんでした。

父親の役目もあり大黒柱だから、人生 自分の足で歩いてきたことが良かったのかな。
事故にも遭遇せず、今日まで生きて来れたことに「感謝」の一言です。
孫13人、曾孫23人、玄孫(やしゃご)11人います。 

令和元年10月29日 7時23分。
安達サタさん 111歳と7日 生きた!
息子 娘 孫たちに見送られ逝った

ほんとうにほんとうにお疲れさま
ありがとう の気持ちでいっぱいです

最後に手を握ったのは
亡くなる前日の朝でした。

wifeはサタさんに最後の言葉を話しかける。
「おばちゃんが、一番先に、わたしたち二人の結婚(齢の差22歳)を認めてくれた。
あのときはほんとうに嬉しかった。ありがとう~」


(再掲)


 
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湯たんぽで躰を温めたヘルパー

2024-01-29 21:21:30 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2020 低体温


犬も老いてくると体温調節が上手くできなくなる
寒がりの”元気”、赤い服を着せた。ぐっすり眠っ
ていた


スマホの着信が鳴った。
出てみると、ヘルパーから「小澤桐さん(67歳)が低体温の状態です」。
低体温の様子を伺うと
最近は雪が降り外気はかなり冷え込むでいる。

部屋の中は寒々していて息は白い。
マッチで点ける石油ストーブの石油タンクは「空」のまま。

桐さんは尿で濡れたズボンを脱がすに薄い毛布を被っていたから
余計寒く震えている。
唇は紫、指の先まで氷のように冷たい。
35.0を下回り、低体温症で死ぬところだった。

濡れたズボンを取り替え
(ガスは点くので)お湯を沸かし湯たんぽに熱いお湯を入れ
彼女に抱きかかえさせた。
熱いスープを作り食べさせた。

躰は少しずつ温まり低体温から脱却できた。

夫は、石油ストーブのタンクに灯油が入っているかどうか確認せぬまま
朝早く仕事に出かけてしまった。

仕事中なので電話はつながらず、
A3サイズほど大きな紙に黒マッジクで
「灯油がない。桐さんは低体温になりあわや死ぬところだった」、と
書置きをした。

16時過ぎ、ヘルパーと一緒に夕方同行訪問した。
桐さんの顔色はいつも顔の表情に戻り、ホッとした。
湯たんぽのお湯を取り替え
石油ストーブのタンクを振ると、ちょぼちょぼと音がしたので
(実際にちょぼちょぼ、と音がしたかどうか擬音語の表現は難しい)
ライターで火を点けると半球が赤く点った。

はかなく頼りない温かさが伝わってきた。
「桐さん 死ななくてよかったな~」
押し入れのなかには薄い掛蒲団があった。
「掛蒲団あるのになぜ掛けないんだ~」
「重いし、面倒くさい」、と言葉が返ってくる。

彼女の震えから能登半島の人たちを思い出した。
極寒と空腹は躰に応え、一日も早い復旧を望まずにはいられない。





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beagle元気と朝夕 8000歩 にチャレンジ

2024-01-28 20:28:31 | 阿呆者
2019 福島健民アプリ


  昨日の散歩は「12345」と数字が並んだ

福島県では県民の健康を増進していく取り組みとして
「福島健民アプリ」をスマホにダウンロードし、万歩計により散歩推奨、体重、血圧も記録しています。

自分は相棒のbeagle元気と、朝夕8000歩の散歩を行っています。
歩く速度が遅くなり、40分かけ8000歩 歩いています。
大動脈弁閉鎖不全症のため走ることはできません。
雨の日は元気は散歩に行きたがらないため、散歩は「お休み」
雪の日は、元気が大ハッスルで雪の上を駆け回っています。

今日 日曜日はだらけた生活に終わってしまった。
6時30分から1時間ほど6000歩の散歩をし、その後朝風呂。

朝食後、那須ガーデンアウトレットへキャンバス(軽自動車、高速で20分、一般道路で60分)で買い物。

仕事に履くアンダーアーマーのランニングシューズ(オレンジ色)を購入。
オレンジ色のシューズを履くと
「若いね」と言われ(お世辞かもしれない)、
その言葉を真に受け、myシューズは「オレンジ色」に決め
3足目のオレンジジュース。

元気の洋服とパジュマも購入し寝るときに着せる。
寒いので夜中に「オシッコ」をしてしまう。
「オシッコ」をすると「ワン!」と吠え、シーツを交換します。

那須ガーデンアウトレットから帰宅すると至福の時間 2時間ほど昼寝

昼寝から起き、夕方は40分ほど元気と散歩。
散歩の後はスーパーへ食材の買い物。
wifeの隣でレジを見たら8000円余り、買い物籠のなかの品数を見ると
これで8000円もかかるのか、と物価値上げをしみじみと感じた。

今日は何もしなかった。
私的なことをダラダラと書き申し訳ありません
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ヘルプマーク

2024-01-27 22:22:49 | 老いびとの聲
2018 ”感謝”


          真っ白な路 足跡のない路を歩くのは気持ちがいい

3ヶ月に1回 眼科受診すべきところを5カ月ぶりに行った。
白内障術後の経過観察と緑内障 眼圧のチェック。
老いても眼が見えるのは幸せ。



受診待ちのとき私の隣に座っている隣の女性(年齢は自分と余り変わりない哉)から
「バッグにぶら下げているのは何ですか?」、と尋ねられた。
「ヘルプマークです」。
「ヘルプマークは、義足や人工関節を使用している方、内部障害や難病の方、または妊娠初期の方など、
外見からは分からなくても援助や配慮を必要としている方々が、
周囲の方に配慮を必要としていることを知らせることで、
援助を得やすくなるよう、
作成したマークです。

私の場合は慢性腎不全症による内部障害で村役場福祉課に申請し頂きました。

「過去に(15年前)人工透析の治療を受けていたことがありました。
56歳のとき、この先老いになってからも透析の治療を続けていくことに不安、苦悩、葛藤を抱き、悶々としていました。
2つ齢下(としした)の妹に懇願し
腎臓を一つ分けてもらい腎臓移植を行った。

妹と自治医大付属病院の医療ススタッフに感謝切れないほどの感謝を頂きました。
生命(いのち)を頂き、
こうしていま71の齢にあっても、「元気」にケアマネの仕事ができることに感謝しています。

隣の女性は「友人(75歳、女性)は20年間透析を続け、透析後の疲れが酷く、見ていて辛いです」、
としみじみ話されておりました。
「本当に移植ができて良かったですね」。

私は、いま「70から80後半の齢を重ねた透析治療者(8人)の通院介助(介護タクシーによる通院等乗降介助、訪問介護)
支援(ケアプラン作成者は4人)を行っています。

高齢になってからの透析開始は疲れが大きく、食べずに蒲団に入ってしまうこともあります。
透析をしていたときの大変さや辛さを振り返り、その体験を伝えることができれば、と思っています。

話は一転します。
18時21分から21時21分まで
wifeに誘われ、カラオケを楽しんできた。
wifeもストレス解消と気分転換を兼ね「声」を出してきた。
wifeは80点以上の採点のなか、私は70点台で80点を超える曲は一つもなかった。




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.老人の呟き

2024-01-26 21:06:01 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2017 自分も老人


       冬の阿武隈川風景 雪の風景を眺めると故郷(北海道尻別川)を思い浮かぶ

  「老人の呟き」

老人は
辛辣な言葉
味のある言葉
人生を振り返る言葉
「無言」の言葉
いろいろな言葉を発する

老老介護
老夫婦共々
長寿の時代になった
喜寿 卒寿を迎え百寿の時代となった

連れ合いのどちらかが
寝たきりや重度の認知症を患い
重度の要介護(要介護3~要介護5)になると
老いた身の介護はしんどく辛い

それ以上に
昼夜ベッド上で臥床し
ジッと天井を見つめながら呼吸(いき)をし
拾年が過ぎた寝たきり老人

寝返りも起きあがりも
老妻(老夫)の手を借りなければできない
我が身の不甲斐なさ、辛さ

自分ならば拾年もジッとベッド上で耐えることができるであろうか
そう想うと
寝たきり拾年
凄い忍耐力だと想う

介護 「受ける」
介護 「される」

受身のある生活に見えてしまうけれど
実際は
そうではなく
痛みや辛さにジッと耐え
無言のうちに生きてきたひとりの老人


長年連れ添った妻(夫)から世話(介護)を受けてきたことに
「すまなさ」と「ありがとう」の気持ちが複雑に交錯する

我が身の下肢や体を動かすこともままならぬ不甲斐なさ
「死にたい」と思ったり、言葉にしても
死ぬことすらできない

それでも妻(夫)に生かされながら生きてきた
どこまで生きれば
神様は生きることを
許してくれるのだろうか

痩せ衰え
骨が出たところがあたり
体のあちこちに
床ずれ(褥瘡)ができた

飲み込むこともしんどく
十分な栄養も摂れず
暑い日々は
口の中は渇き 脱水症になり
脚はつり、その痛さは耐えられない

それでも必死に生きる老人の姿から
老い病み死とは、何かを考えさせられてしまう

  《私の呟き》

  私はいま、老いの真っ最中
  長い時間
  無駄に生きてきたことに
  気づかされた
  
  後悔しても
  過ぎ去った時間を取り返すこともできないし
  逆戻りすることもできない
  「後期高齢者医療保険被保険者証」「介護保険被保険者証(要介護度は未記入)」が薬手帳に挟んである
  私も立派な老い人

  いまさらながら
  老いの身になって
  頑張ったところで
  できることは限られている
  
  青い空の下で
  碧い海の上で
  鴎が飛んでいる風景に
  小さな夢を重ね
  あと数年の短い時間(とき)であっても
  いままで無駄に生きてきた時間を
  少しでも埋め合わせていければと
  今更ながらジダバタしている

  何ができるか
  限られているけれど
  病み人の状態だが「健康」である限りは
  まだ、生きられるのかと開き直っている

  老人になった私は
  老人たちに向き合い
  老人の後姿から学び
  老人たちと生きて往く
  自分も老いの躰となった


  これを目にしたwifeは「私が先に逝きたい」、と呟いていた。


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労いの言葉

2024-01-25 18:29:39 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2016 松さんが亡くなった


         2024年1月25日 阿武隈川辺散歩路 朝陽に照らされて
                             beagle元気と老い人の足跡


ショート利用中 食事中に詰まらせ亡くなった。
予期せぬ死であった。

薔薇の花を食べた89歳の認知症老人 故松さん(女性)。

無言でショートステイから家に帰った松さんの顔は、穏かな表情であった。
言葉をかければ、いまにでも眼を覚ますかもしれない。
自分は穏やかな表情で死にたい、と思った。

老母の介護から解放され、本当に最後まで介護をされてきた長女。 
「できる限りのことはやったから悔いはない」
「亡くなった父親が、もう俺のところに来いと母親を呼んだのでしょう」

「ショートの施設に対しては恨みはなく、介護して頂いたことで感謝しています」
「桜デイサービスには本当に助けてもらった。医院や病院の付き添いをしてくれたときは、本当に助かった」
「一時、自分の両腕はあがらず、腰も痛く、辛かった。本当にありがとうございました」
と 穏やかに話された。

ショートステイでの事故 介護スタッフが目を話したときに 喉を詰まらせ亡くなった。
施設を責める訳でもなく、長女の気持ちは複雑ながらも、老親の死を受け入れてもらえることができ、ホッとした自分。

長女は、老親の介護にかかわり 身をもって苦労したから
ショートステイの介護スタッフの大変さをわかっていたからこそ
責めることはしなかったのかもしれない。

「夜間の徘徊、頻回に重なったトイレの介助
朝方玄関上がり框での度重なる転倒による負傷等
最後は本当に大変でしたよね。
娘さんも憔悴しきった表情で
この先介護続くのかと心配していました。
でもよく介護されていて、お母さまは幸せでしたし
安心してご主人のところへ逝かれたと思います」
と 言葉をかけると
最後は涙ぐまれていた。

介護を終えた後
介護者に労いの言葉をかけることも
大切なことである。

妻が夫の老親の介護を終えたとき
介護の協力はなかった夫であったけれど、
最後に「介護お疲れ様、本当にありがとう」
と、その一言でいままでの苦労や辛さが報われた気がしました。
 
「ありがとう」「長い間お疲れ様」、その一言は

心身共に蓄積された介護疲れは、ふ~と心が軽くなります。

2017-06-15掲載。 一部書き直したり付け加えたりしました。


コメント (2)
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老母の介護に疲れた その後2 「死んだように眠っていた」

2024-01-24 20:10:19 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2015 おかげ様で私も夜眠れるようになった


        冬の阿武隈川 寒さを感じさせる白い川波 令和6年1月23日 撮影

松さん(89歳)は、愛想はなく
他のお客様が「おはようございます」と挨拶をしても
無愛想で「・・・・」のまま
自分から話しかけることようなことはない
見るからに意地悪婆さんの雰囲気

何もしないでいると
「トイレに行きたい」と訴え
椅子から立ち上がろうする
傍に座り手を握ると落ち着く 
寂しがり屋なのか 甘えん坊なのか

昨夜は徘徊で活動していたせいか
手は温かい 眠いのかもしれない
眠いからと言って ここで寝せては
昼夜逆転を 逆転させ 
昼起きて 夜寝る のリズムに戻さねば

桜デイサービスのスタッフは
ボールやゴムバンド、手拭いなどの小道具を使い
手足を動かす運動を1対1で行った
ときには他のお客様にも参加して頂き
輪になり 音楽に合わせ体操を行った

午後は、スタッフと一緒に30分ほど
桜デイサービスの界隈を散歩
昼寝は無し

音程は微妙ではあったけれど
本人はそんなことは気にすることはなく
大きな声で 5曲ほど唄った
このときも,ただ座って唄うだけでなく
身振り手振りを入れながら唄う

画面の文字や歩くときに
視点が左側ばかり向くことに気がつき
もしかしたら右眼が見えていないのではないか、と疑い
大きな月暦を使って視力検査を行った
左眼を手で押さえたとき 右眼は大きな数字を読むことはできなかった
右眼がみえていない
長女も 気がつかなかった

今回いっしょに彼女と行動した際に
桜デイサービスセンター長が気づいたのであった
これは大きな発見で
糖尿病による失明なのか 医師による診察が不可欠である

初日のデイサービスは寝ることもなく手足や体を動かした

帰宅し
松さんは夕食を摂り20時30分頃まで起きていたが
その後は朝まで一度も起きることもなく爆睡
翌朝 長女真恵さん(62歳)に電話をかけ様子を伺う
「死んだように眠っていた」

2日目 3日目も翌朝電話すると
真恵さんから同じ言葉が返ってきた
「死んだように眠っていた。おかげ様で私も夜眠れるようになった
「本当に感謝しています。安心して仕事に行けます」

まだ気は抜けないが
昼夜逆転は消失した

トイレ行きたいコールはかなり減ってきた
黙って座っているとトイレのことが気になる
体を動かしている間は トイレのことを忘れる
頻回にトイレに行ったとき オシッコは出てもチョロチョロ
1時間に1回となると それなりにオシッコが出ると 本人も満足する

手足や体を動かさず 椅子に座った状態でも
「トイレに行きたい」という言葉が頻回に出ないようしていきたい
まだ始まったばかりである

夜間徘徊 トイレコール頻回 は消失しつつある

「また、デイサービスに行きたい」「楽しい」等など
飽きさせないことが大事

ときには「何もしない時間」も必要

寝せないこと、テレビ子守にさせない
食事中はテレビをつけない
「そのために紙オムツがあるのだから・・・・ 紙オムツにしなさい」ではなく

桜デイサービスは、本人の尿意を無条件に受け止め
トイレで用を足す
紙オムツをしてもトイレに行き、洋式便器に腰掛ける


徘徊」(この言葉が嫌い)「トイレ頻回」など
いろいろと手がかかるから
「寝ているときは無理に起こさない」(寝た婆さんを起こすな)、ということで
昼間なのに寝せてしまう

認知症だから何もできないから、と決めつけ、ただ座っていると眠くなり寝てしまう。

だから、家に帰ると昼夜逆転現象が起こってしまう。


ピンク色の文章は 令和6年1月24日 加筆したものである
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「老母の介護に疲れた」その後

2024-01-23 14:04:46 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2014 老母 松さん


本当は、歩行介助は杖を着かない側に
着くのがよいのですが、研修しても
まだ理解ができていない介護職員も
います。反省しています。
杖側の腕を持つと老人は歩きにくい
ですよね


老母 松さん(89歳)の夜間徘徊と3~5分間隔の「トイレに行きたい」
という行動は いまも延々と続いているのか
それとも消失したのか
気になるところです。

松さんはⅡ型糖尿病の持病があり
別の内科クリニックを受診中にあった。
インスリン、服薬による薬物療法と
長女真恵さん(62歳)の献身的な食事療法により
(長女は、仕事をしていたので朝5時に起きて、老母のだけの糖尿病食を作っておられた。脱帽です)
血糖値は安定していた
安定していないのは 不穏な行動「徘徊」と「トイレ頻回の訴え」

私は 長女の同意をとり
隣市にある認知症専門医 鎌田和志医師に電話を入れ
初診の予約をとった。

精神科医、心療内科医 どちらでもかまわないのですが
認知症高齢者にかかわらず、精神障害者も含めて
患者やその家族の悩み、不安などを
よく聴いてくれる医師かどうかが大切

大変な介護者だけの話を聴いて
老親に強い眠剤を処方され
徘徊やトイレ頻回の行動は収束されたけれど
朝まで眠剤の作用が残り
ぼぉ~とした表情になり
生気が失せてしまい、うつらうつらしてしまう。

真恵さんは、今日の先生はよく話を聴いてくれた
老母のことも気にかけてくれていたし
安心して昨日は眠ることができた、と
翌日電話をかけたときに 話してくれた。

認知症の進行を遅らせる薬と
就寝前に気持ちを安定させる薬が処方された。

薬を服用してもすぐに効果は出るものではなく
長女の介護苦労は依然続いていた

私は 桜デイサービスセンター(令和5年2月28日付け廃止 自分が経営していた事業所)のスタッフに
「松さんの利用を受け入れをお願いした」
さらに ショートステイ静狩苑の併用利用
ショートは長女の気分転換、息抜きを兼ねた利用

桜デイサービスの利用が始まった。
明子センター長が初日の担当となり
彼女と1対1の関係で付きあった
トイレに行きたい、と訴え椅子から立ち上がった行動は100回を超えた。
実際にトイレに行ったのは20数回
20分に1回はトイレまで着いて行き、見守りを行った。
(再掲載)

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この先どうすればいいのか

2024-01-22 18:29:32 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2013 老母の介護に疲れた



老いた母親の介護は疲れ果てた
顔は一回りちいさくなり目は窪み
どうしていいかわからない

デイサービスからも
ショートからも
「もうみられない」というようなことを
言われてしまった

この先どうすればいいのか

その夜 ケアマネは駆けつけ
長女の深く暗い悩みに
耳を傾けた

老母は,夜中十分おきに起きトイレへ行く
数度夜中表へ出だし歩き始める
外へでたときは後ろからついて行く

「私の体のほうが悲鳴をあげている」
「もう横になりたい」
「もう眠りたい」
と長女はか弱い声で話す

ようやく老母が
認知症であることを始めて認めた長女

長女は母親との軋轢を話してくれた
娘からみれば母親ではなかった
東日本大地震のとき
「娘にやる米はない」と言われた
「母ではなく鬼だと」思った

母は何も変わってはいなかった
子どもだったときから
母親と温かい言葉を交わしたことがなかった

それでも私の母親には変わりはないと思い
介護をし続けている私
糖尿病で手を煩わせている母
認知症でてこずらせている母
まだ家でお世話していきたい、と

長女が抱えている悩み、不安、葛藤、疲労、憔悴など
絡み合った糸をほぐすためにも
彼女の話を最初から最後まで聴いた

2017/05/06 (再掲)

老母は、天国で暮らしている
介護から解放された長女
忘れた頃に電話がかかってくる
「大根、葱があるから、畑から持ってきたばかりだから」、と言って
遠慮なく早朝に頂きに伺う。
コメント (4)
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