HAZAMAN'S WORLD WEBLOG

自分が描く絵のことや、日々の暮らしの中でふと気付いたことなど・・・・

プチOB会

2008年03月31日 | Weblog
昨日3月30日日曜日は雨。もう一度コートの裏を付けなければ寒さに凍えそうになるような寒さの中、久々に大学時代の恩師と先輩と似合ってきました。大学の恩師の研究室での会合に集まったのは僕を入れて4人。大学を訪れるのも5年振りかそれ以上で、敷地の中もすっかり様変わりし、自分が学んだ校舎だけは昔のままの姿だったのを見て少しほっとしました。

恩師との会話の中で、僕の作品の話を少ししたのですが、僕の作品は絵の中に言葉が書き込んであります。アメリカの個展で、向こうの人はほぼ間違いなく日本語なんて読めるわけがないし、とんでもない誤解をされているのかもしれないなと思うということをポロリと言ったのです。

すると恩師は、向こうの人間がどんな風に解釈しようと、そんなこと気にしなくていいんだよ、と言い出したのです。そんなことに責任はもてないし、たとえばぼく達だって全く読めないヒエログリフをぼく達なりに楽しむことができて、そこから自分達なりの意味を引き出すでしょ、彼はそういいました。

それを聞いたときにふっと肩の荷が降りて軽くなった気がしたのです。自分はあまりにも自分の手に終えないことまで抱え込もうとしていたのではないかと。彼らのことは彼らに任せて、僕は絶対にはずしてはいけないポイントだけに集中すればよかったんだと思いました。

実はこの恩師との会話の前日まで、アメリカのギャラリーに彼らの日本語理解についての質問のメールを出そうかと迷っていたのですが、それもどうやらしなくて済みそうです。もちろんほかに用件はいろいろあるのですが。

もう一つこのことに関連して嬉しかったのは、僕が大学2回生の時に初めて見たアボリジニの樹皮絵のことです。知っての通りアボリジニの樹皮絵は、彼らの住む土地で取れる木の皮の裏側に、同じその土地で取れる茶色と黄土色と白い土、それの木炭を用いて描かれた素朴な絵です。

何かの偶然で京都国立近代美術館で見たアボリジニ展は、長い間僕をとりこにしていました。樹皮絵にある愛嬌たっぷりなのにシンプルな線画を自分の作品にも取り入れたいとも思い、真剣に模写しようとまで思っていた時期もありました。

けれど、ある時、彼等の樹皮絵は結局彼らの神話体系が分からない限り理解できないんだと思ったとたん、樹皮絵のスタイルを真似たってそれは単なる上滑りなだけじゃないかとおもい結局手を出すことなく終わってしまったことがありました。

もちろん、文化を取り入れるという視点で考えるなら、アボリジニの歴史や神話宗教体系を知ることなく表面だけ真似たところで全く意味はないでしょう。けれど、学び続ければいつか理解できる日があるかもしれない何かに向かって、思いっきり誤読していることを承知で自分がそこに何を発見できるかということを探っても良かったんだなと、ふと思ったのです。それに自分だって、いつも人に僕の意図なんて構わずあなたが見たいものを見てくれと、言ってたなと。

多分、人生のかなりの部分を、正解するのが当然で、間違えてはいけない試験というものをを受けるということに費やしてきたせいでしょう。自分が間違えることも、人に間違えられることも、ともに恐れてしまうのです。今目の前にある正しさなんていつかは覆されるまやかしかもしれないのに。

人間がいつも求めて止まないものは、人生の意味ではなく生きているという経験だと言っていたのはジョーゼフ・キャンベルですが、まさしくアートというのは人生という経験のための一つの方法だったはずです。だから、それに正しいも誤りもありません。あるのは魅力的であったかあるいはそうでなかったのかということだけなはずです。

もっと大胆に、臆することなく日々の生活を楽しむこと。かなりすっ飛んだ結論になりましたが、アートはまだまだ面白いことがあるようです。

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