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エロ本の話

2014-06-09 06:57:57 | 日記

 かなり昔に父親がベッドの下や横にタンスの上にエロ本を蓄えているのを見つけたことがある。父親に対して失望をしたといえばしたのだが、以前からそんなことを楽しげに話していたのでショックがあったわけではなかった。親がこういうことをしたがる機能を持っているので自分が出来たとも言えなくもないとも感じた。受取伝票から見ると受け取っているのは私があまり通っていない市内の本屋であるようだ。Amazon.co.jpの存在しなかった父親がまだ独身であった頃にその本屋に取り置きを依頼して、そこからズルズルと続いていたのだと考えている。
 親がこの行為を行なっている人間が居たとして、果たしてそれをその周りの人間が知った時にどう見るのかと考えたことがあるが、家庭が破綻するネタになりそうであるし、その人が頭の中で想像していることが社会的に適合したことでないことを示していて関係を持たないのは安全上正しいのではないかと思える人が多いのではないだろうか。私を除外するのはそれに付随して正しいことになり、私には原因が自己認識において不明であって差別が生み出される構図に嵌っていくのではないかと感じられる。ただ、性行為も人間的交流をしたがり世代を再生産するための重要な本能の一部であるわけで若い時に無いと理由上は困るはずであって、興味を誘っておきながら、読むと実際の人間関係に都合が悪くなるような状況を生み出している世の中がわるいと言えなくもないと私は感じる。
 私が眺めていて一つ思うのは、エロ本を不倫や危険な関係を題材につくることが多いわけだが、基本的に安全な関係でも同程度の描写が可能であるはずであるということだ。その本を購入すること自体が一種のタブーであるわけで、そこに安全で適切な描写を書いておくのは気分が悪いという制作サイドの人もいたりで何かあるらしい。ただ、漫画になってくるとその制約が取れてきて写真では不適切とされる状態・関係からエロ本では描きたくない適切なものものまでなんでも書いてくるようになってしまうようだ。最近、児童ポルノの単純所持が禁止されたわけだが、被写体がいるのと居ないのとでは人間の罪悪観念がえらく違っていて、法解釈も全然違うという感じがする。
 絵と写真を分けるものはおそらく描写の仕方だけであろうと思うのだがその辺の壁を超えたとかでいずれ裁判を起こす人が出てくるであろうと思われる。大昔に澁澤龍彦がマルキド・サドの著作の翻訳本の出版をめぐって争ったことがあるが出版業界にとってそれと同じくらい重要な裁判になるはずである。
 私は写真集のようにデフォルメされていなかったり、ストーリーのないものは嫌いなので基本的にエロ本は買わないのだが、漫画を買っているうちにいつの間にかエロ漫画まで備蓄している時がある。いけないことなのかもしれないと思っているが、本棚に放置してある。手塚治虫の『奇子』という漫画が置いてあった記憶と少しかぶっている気がする。その原因の一つであるToLoveるダークネスがSQジャンプが掲載し続けられているのかが不思議の一つになっているのだが、指摘する委員会は実在するのだろうかと最近思っている。



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