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身近な事象が常識になっているか

2014-04-16 21:38:31 | 日記

 このまえ借りてきた、JR東日本の駅の音楽を聴いていて思ったことだが、かなり多くの人が頻繁に聞いているのに常識とは程遠いと思った。学校のチャイムに『ウエストミンスターの鐘』というタイトルがあることが学校の教員や生徒にも知られていないのと同じことなのだが、確かに何の曲であるかは全く用をなしておらずタイミングや時刻を知らせるのみであって特筆性がないため人の話題にならず、大体の人に覚えられていないのだと考えている。

  身近に呼称を覚えていないために注目せずに通り過ぎたものというのは無限と言って良いほどあるわけだが、私は本当に認識しなかったがためにそんなことになっていたことすらわからない状態である。子供の頃、草花の名前を覚えるのが好きだったことがあるのだが、それは必要がある本能のようなもので、その段階であの電車や学校のチャイムのメロディの呼称も覚えておけば現在の都市や鉄道に対する認識や興味が深まって学習する意欲もわいて思い出が全く異なった状態になっただろうと感じる。私が草花に興味を持ってきた頃、大多数が興味を現実に感じてその上に実際の問題を元にして人間関係を成立させるのだと話の上では見せかけて虚構の物語であるゲームの話題でもって人間関係を築いていた気がするのだが頭の中で何かが逆のような気がしている。

 聖書か何かに『狭き門より入れ、滅びに至る門は広く、道は広い。生きる道はの門は狭く、道は険しい』とかそんな感じのことわざになっている一節が書いてあった記憶があるが、その観念に合わせてわざわざそうしている人がいたらどうしようかと思う時がある。広い道は安全な道であることが実際は多いのだ。わざわざ広い道を滅びに至る道にしないで欲しいのだが聖書に書いてある以上なぜかいるような気がするのだ。今だに地動説を認めていない人物がかなり居るわけで存在する確度は高い。

 前にお金というものは一旦数値になった金額に関しては計算誤りが少ないが、なぜ他の物と交換できるかというところに一番根本的な問題を抱えていてとても科学的だなどと言える代物ではないことをブログに書いた。結構たくさんの人が常識と感じているものがそういった金銭のやり取りや科学的なものが考えられる以前に考えていたことを正しいと考える感性に基づいて居ることが非常に危惧されていて、科学的に正しいことを社会に応用しようと考えて本当に成し遂げるとことごとく今までの範疇において常識的でないのではないかと考えている。それを成したりしない人間にしようと意外に数多くの親が配慮しているのかもしれない。

 



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