Wikipediaで『常識』という項目を大昔に調べた記憶があって、その時、今まで目の前で常識というものを軽く主張した人が本当に勉強をして調べたり、考えたりしたのか疑問を持ち、人に問われたときにこの答えを返した人間が企業に入ったかどうかが疑問視されたのだが、もう一度、Wikipediaにおける『常識』の項目を読んでみた。
Wikipediaのその項目の概要にはこう書かれている。
「
常識(じょうしき)は、社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと。また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと。対義語は非常識(ひじょうしき)。社会に適した常識を欠いている場合、社会生活上に支障をきたすことも多い。社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。これは文化摩擦などとして表面化することもある。
」
常識を企業が入社する社員に求めることが多いが、そのとき、企業側はその人の持っている常識が自分と一致しているかを問ってくるので、現実に即した実際的な答えはNGである。常識に従ったことによって生じた相手と同じ幸福な体験に基づいた、周囲から好感をもって見られる物の見方をしていることを大体の場合はアピールしなければならない。普段から現実に即した科学的に正しい見方でもって人間のことも判断しようという試みを行っている人はできる人を見習って嘘をつかなければならない。
常識について詳しく考察して知れば知るほど、人間が生まれた時からほしがっている常識からは遠くなっているし、一度、正しい否定しがたい方法でもって常識とは何かを理解してしまうと、刺激によって勝手に動いて常識と思しきものを認識していた感情が止まってしまうような感じが私は他の人にもあるのではないかと感じている。正しい考察の結果としてまったく人の求める常識は身についていないはずである。
人数が目で数えられないくらいの規模の社会的集団に対する感性的な見方というのは基本的に事実やそれに基づくデータ解析に裏打ちされていないことが大多数であり、社会の構成員がどのような学習や体験をし、それに基づいて考え、どう行動しているかという事に対する感性的な推論はかなりの場合に間違っていて誤差が大きい。人を多く見ていれば近似的に常識が手に入ると思うかもしれないが私は渋谷駅の人ごみを歩いただけで常識を手に入れるどころか人間の多様さと自身の体験・考察できる範囲の時間・場所などの限定により常識の所在が行方不明であることを再認識するし、常識という言葉を発した時点でおそらく自分は間違ったことを言ったのではないかと振り返って考えてしまわないといけないと私は考えている。接近していて、体験・経験を長く共有している状態の人物や規格にのっとった仕事や勉強をやっていた人に対して範囲を限定した常識という概念を用いることは問題が少ないかもしれないが、何をしていたか体感的につかめない初対面の人物に使ったときには社会的に認められていることであっても実際のことを考えればかなり難しい問題で実際は拒絶に近いと考えられる。面接で常識について問われなければ拒否されていないも同然で合格の可能性があると考えてよいと私は感じている。