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テレビの連続ドラマのせいで、ニッカウィスキーがブレイクしているようです。
今日はKONSの吏菜ちゃんにもらった、竹鶴政孝の自叙伝を読みました。
竹鶴政孝は1894年に広島県竹原町で造り酒屋の3男として生まれました。
長男は早稲田大学から商社マンになり、次男は九州大学から北海道石炭汽船のエンジニアになったので、両親は跡取り息子として政孝に期待を寄せ、
今で言う大阪大学工学部の醸造科に進学させました。
卒業後、当時の洋酒のトップメーカーであった摂津酒造 ( 現在の宝酒造 ) に就職します。
そこの社長の計らいで、政孝はスコットランドに留学し、大学の授業だけではなく、各地のウィスキー蒸溜所を訪ね回って、竹鶴ノートを作成しました。
後年、英国のヒース首相は、" 頭の良い日本の青年が、一本の万年筆とノートでウィスキーづくりの秘密を盗んでいった。 " と評しました。
4年間の英国滞在の後に帰国しますが、摂津酒造は不景気に翻弄されており、ウィスキー製造の計画は取締役会で否決されます。
傷心のうちに政孝は摂津酒造を退社します。
そんな政孝を拾って、ウィスキーを造らせたのが赤玉酒造( 現サントリー ) の鳥井信治郎社長でした。
天王山のそばの山崎の地で、政孝は日本初のウィスキーを造り上げます。
入社時の約束通り、10年で政孝はサントリーを円満に退社し、自ら北海道余市でのウィスキーづくりを目指します。
どこまでも品質にこだわり、値段も高く、ピート臭いウィスキーは当初売り上げが伸びませんでしたが、徐々にコアなファンを増やしていきました。
しかし、残念ながら2001年にはアサヒの完全子会社になったようです。
さて私ですが、20代の頃はサントリーのレッドにはじまって、角、オールド、リザーブとジャンプアップしていきました。
ところが27歳のある晩、酔っぱらって立ち寄ったスナックのマスターが、ニッカのフロムザバレルの口を開けて勧めてくれたのです。
ストレートで飲んだのですが、その美味さに圧倒されてしまい、その晩に、ほとんど一人で空けてしまいました。
それから15年間は、自分で買うウィスキーはフロムザバレルだけでした。
ところが、40歳を超えた頃に洋酒が値下がりしてジョニ黒が安くゲットできるようになりました。
そこでジョニ黒に乗り換えて20年になります。
自分の主義主張が定まらぬ若い頃はともかくとして、27歳から15年間同じニッカウィスキーを飲み続け、
そこでジョニ黒に乗り換えて20年間、元に戻ることも無く、それだけを飲み続けるというのは、なんだか、清廉潔白な? 飲酒歴ですよね。
ただ、最近では灰汁 ( アク ) の強い女 ( ラフロイグ ) にちょっかいを出し始めたようです。
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