実家にいる頃のおやつといえば、果物やトマトだつた。
我が家の土間には、庭や畑で取れた物や、お檀家さんが届けてくれる農作物や果物であふれていた。
りんご、柿、梨、トマト、スイカ、瓜、マクワウリ、イチヂク、ビワ、みかんなどなど。腐る程あったから、食べるのが子どもの仕事みたいに、父はいつも、
「☆☆があるから食べてくれよ」
と、言っていた。
りんごや柿や梨はいつも丸かじりしていた。
冬に夏の思い出話はおかしいけれど、夏の縁側で風呂上りに扇風機にあたりながら、ステテコ姿でマクワウリを剥いてくれる父、夏の夜の風物詩だった。
まだ井戸水が綺麗だった頃は井戸にどっぽ~んと吊るしこんで冷やしていた。
井戸水を飲めなくなってからは大きなたらいで冷やしていた。
母は立派なスイカをまっぷたつに切って、私と二人で半分ペロリと平らげて、あとは目と口の穴を開けてロウソクを立てて地蔵盆に墓に飾る。姉のスイカの食べ方は、三角に切った時に真ん中のてっぺんだけかじって、そう、人様のてっぺんもかじって回って逃げるのだ。私はいつもやられていた。
私はスイカが大好きだから白いところが見えるまで食べて、お皿の汁をストローで吸った。
死ぬ前に食べたいもの、それはスイカ。子ども達には伝えてある。忘れてくれるなよm(_ _)m
スイカは奥座敷の廊下に頂いた順に奥から並べてあった。
当然奥から痛んでいく。
そうならないように、毎日食べた。お客さんや、植木屋さん大工さん、左官屋さんなど、出入りの職人さんのおやつにもスイカを切った。
それでも痛んでくる。そうなると、アリがやってくる。
廊下にアリの行列を見つけた時はやれやれガックリする。
父が最初はほうきではいていたが、ある日から掃除機で吸い取るようになった。
あれもショックだったなあ。あのアリ達はどうなるのか、考えるのはやめた。
当時、バナナは高級だった。病気になるとバナナを食べさせてもらった。
幼稚園の時にはしかになり、大好きな先生がバナナを持ってお見舞いにきてくだすった。うれしかったなぁ。もう、ずっとはしかで寝ていたかった。座敷で寝さされている自分の姿をまだ覚えているくらいだ。
バナナといえば、母がよくマジックをしてくれた。皮を剥いたら中身が切れているのだ。針と糸でできるマジック。せがんでやってもらった。
親の手を煩わさずに食べられる丸かじりできるりんごは、確かに食べ過ぎたのだろうなあ。姉が母のお腹の中にいる時、母はりんごをたくさん食べたそうだ。そのせいか?姉の肌はものすごく美しい。シミ一つない。
今でもうっとりするほど美しい。反対に私を宿した時はナスのお漬物ばかりたべたそうだ。だから私はソバカスだらけ。母がいつもそう言っていたから、せっせとりんごを食べたのだけど、だめでした。挙句に酷いりんごアレルギーとなり、無い物ねだりにろくなことは無い。
子どもの頃の思い出は書き出すときりがない。
反抗期にはいる以前の家族との思い出は、沢山ある。エンディングノートだからできるだけ、書いて行こうとおもっている。
反抗期の土最中の武勇伝もたっぷりある。
忘れたくないから書く!
バラエティに富んだ過去は確かにあったし、私の中でいつまでも生き生きしている。
平凡な私の足跡だ。
おやすみなさい、明日があるならまたね。
我が家の土間には、庭や畑で取れた物や、お檀家さんが届けてくれる農作物や果物であふれていた。
りんご、柿、梨、トマト、スイカ、瓜、マクワウリ、イチヂク、ビワ、みかんなどなど。腐る程あったから、食べるのが子どもの仕事みたいに、父はいつも、
「☆☆があるから食べてくれよ」
と、言っていた。
りんごや柿や梨はいつも丸かじりしていた。
冬に夏の思い出話はおかしいけれど、夏の縁側で風呂上りに扇風機にあたりながら、ステテコ姿でマクワウリを剥いてくれる父、夏の夜の風物詩だった。
まだ井戸水が綺麗だった頃は井戸にどっぽ~んと吊るしこんで冷やしていた。
井戸水を飲めなくなってからは大きなたらいで冷やしていた。
母は立派なスイカをまっぷたつに切って、私と二人で半分ペロリと平らげて、あとは目と口の穴を開けてロウソクを立てて地蔵盆に墓に飾る。姉のスイカの食べ方は、三角に切った時に真ん中のてっぺんだけかじって、そう、人様のてっぺんもかじって回って逃げるのだ。私はいつもやられていた。
私はスイカが大好きだから白いところが見えるまで食べて、お皿の汁をストローで吸った。
死ぬ前に食べたいもの、それはスイカ。子ども達には伝えてある。忘れてくれるなよm(_ _)m
スイカは奥座敷の廊下に頂いた順に奥から並べてあった。
当然奥から痛んでいく。
そうならないように、毎日食べた。お客さんや、植木屋さん大工さん、左官屋さんなど、出入りの職人さんのおやつにもスイカを切った。
それでも痛んでくる。そうなると、アリがやってくる。
廊下にアリの行列を見つけた時はやれやれガックリする。
父が最初はほうきではいていたが、ある日から掃除機で吸い取るようになった。
あれもショックだったなあ。あのアリ達はどうなるのか、考えるのはやめた。
当時、バナナは高級だった。病気になるとバナナを食べさせてもらった。
幼稚園の時にはしかになり、大好きな先生がバナナを持ってお見舞いにきてくだすった。うれしかったなぁ。もう、ずっとはしかで寝ていたかった。座敷で寝さされている自分の姿をまだ覚えているくらいだ。
バナナといえば、母がよくマジックをしてくれた。皮を剥いたら中身が切れているのだ。針と糸でできるマジック。せがんでやってもらった。
親の手を煩わさずに食べられる丸かじりできるりんごは、確かに食べ過ぎたのだろうなあ。姉が母のお腹の中にいる時、母はりんごをたくさん食べたそうだ。そのせいか?姉の肌はものすごく美しい。シミ一つない。
今でもうっとりするほど美しい。反対に私を宿した時はナスのお漬物ばかりたべたそうだ。だから私はソバカスだらけ。母がいつもそう言っていたから、せっせとりんごを食べたのだけど、だめでした。挙句に酷いりんごアレルギーとなり、無い物ねだりにろくなことは無い。
子どもの頃の思い出は書き出すときりがない。
反抗期にはいる以前の家族との思い出は、沢山ある。エンディングノートだからできるだけ、書いて行こうとおもっている。
反抗期の土最中の武勇伝もたっぷりある。
忘れたくないから書く!
バラエティに富んだ過去は確かにあったし、私の中でいつまでも生き生きしている。
平凡な私の足跡だ。
おやすみなさい、明日があるならまたね。