2013/06/01
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばの知恵の輪・数え方の世界(1)ここのつ、とお
人は言葉を使わずには生きられない生物。ネアンデルタール人も未熟ながらことばは持っていたというし、生きとし生けることばを持つ人すべてが私にとっては、ことばの先生です。あちこちお邪魔するブログの書き手から学ぶことも多い。方言を教わったり、流行の若者言葉を教えてもらったり、言葉遣いのあれこれなど。
先日のブログで、すみともさんが「つばなれ」について書いていらっしゃいました。年齢の、「ひとつ」から成長して「ここのつ」まで育ち「とお」になると、「つ」がつかなくなる。十になると、幼かった子も、ようやく手が掛からなくなり、独り立ちへ向けてまたあらたな成長を始める。そんな内容でした。
私は、「つばなれ、なるほど!のことばですね。これをうかがって「ようか、ここのか、とおか」は、「か(日)」が「とお」にもつくのに、どうして「やっつ、ここのつ、とおつ」にならなかったのか、気になりだしました。
「ふつか、みっか、よっか」には「か」がつくのに、どうして一日は「ひとか」ではなくて「ついたち」なのか、という質問には答えられるようになったのに、どうして「とおつ」とはいわないのか、気になりましたので、連休後半は、しばし「下手の考え休むに似たり」をやりたいと思います。」
というコメントを寄せました。
気にならなければ、何気なく使ってほうっておく日本語、気になり出すと調べたくなります。
さて、「とお」です。古代日本語には、いろいろな説が出されており、学者によって言うことが違っているものなのですが、これまで調べた範囲では。
縄文語あたりでは、片手を出して、ひー、ふー、みー、よー、いつ。これでひとまとまり。むー、なな、やー、ここの。ここまでで数えるのは、終わり。
「あとはいっぱい」「たくさん」「おおぜい」の意味が「とお」だった、という説があります。
1個2個の個にあたる和語が「つ」ですが、現代語で「3個、4個」「5人、6人」と数えて言って、「たくさん個」や「おおぜいにん」などと言わないのと同じく、「とおつ」とは言わなかった、という説、なんとなく納得できました。
ひとつ、ふたつと数えていき、「ここのつ」まで数えれば、それ以上は「たくさん」で済ませていた数え方があった、ということです。
パプアニューギニア奥地などでは、つい最近まで「ひとつ、ふたつ、みっつ、あとは、いっぱい」という数え方で十分生活できました。
胡桃の木の管理、栃の実などの木の実栽培がはじまり、やがて米作りが始まって、大きな数が必要になってきました。両手の数が「とお」に確定し、11は「十 余り ひとつ(トオマリヒトツ)」。19は、「十余り九つ(トオマリココノつ)」。「165」は、「もも余りむつとおあまりいつつ」、長たらしく面倒なので、漢字到来とともに、漢数字「いち、に、さん、しー、ごー」の方が普及しました。156なら、「ひゃくごじゅうろく」で短くてすみます。
原日本語を話す人たちの間で、「とお」が「いっぱい」を表すのではなく具体的な数「10」を表す数え方が確定しました。
その後に日付の呼び方が出来上がったので、「とお」にも、ふつか、みっかの「か=日」がついた、ということになります。
ちなみに、一日を「ひとか」と言わないのはなぜ?というのも、日本語語彙論の定番クイズです。
太陰暦を使っていたころは、月のはじめは必ず新月、月が立ち上がる日でした。「月立ち→ついたち」
こちらも、日本人学生は「どうしてツイタチというのか、考えたことなかった」と言います。
ついでに日本語の倍数体系について。hiの倍数がhu。miの倍数がmu。yoの倍数がya。倍数がちゃんとわかっていて、倍数同士で対になっている数え方。これを教えると、留学生は、古代日本語の知恵にちょっと感動します。
<つづく>
05/02
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばの知恵の輪・数え方の世界(2)ひとつふたつ
世界中にさまざまな数え方があります。
日本語学や日本語教育学を学ぶ日本人学生には各国の数え方を調べて発表してもらいます。
まず、学生に英語で数えさせます。英語では12までがセットになっていることが確認できます。13は「3と10」19は「9と10」という数え方をしています。
そのあと私から、スワヒリ語の数え方を紹介します。ジャンボ!と挨拶してから、「モジャ、ンビリ、タトゥ、ンネ、タノ、シタ、サバ、ナネ、ティサ、クミ。11はクミナモジャ(10と1)クミナンビリ(10と2)という数え方なので、日本の数え方と同じしくみであることを確認します。次に「アイヌ語とフランス語の紹介をします。
母語の他の言語を学ぶと言うことは、自分の属していない文化の考え方を学ぶと言うこと。多様な世界の多様な考えからさまざまな文化があることを意識し、決して日本語の考え方が世界の中で特殊でもへんでもなく、日本語はごく平凡な言語であることを知らせます。ただ日本語の漢字仮名交じり表記は世界のなかで、めずらしい表記方法であることもあとで学生には知らせます。3種類の文字を混ぜて表記するのは、世界では特殊なやり方ですから。
12進法が主流であったラテン語系の言語。英語も12までが特別な言い方で、13からは、規則的で覚えやすい。
フランス語では、1~15までが特別な数え方で、17,18,19は、日本語の「じゅう、しち」「じゅう、はち」「じゅう、く」というのと同じ数え方。20は英語と同じく別の言い方になるのはいいですが、70は「60+10 soixante-dixソワサント ディス」となり、71は「60+11ソワサンテ オンズ」。80は「4×20 quatre-vingts キャトルヴァン 」90は、「4×20+10 quatre-vingt-dix キャトルヴァン ディス」
これじゃ、かけ算九九を唱えるのがたいへんだと日本語母語話者の私は感じてしまいますが、子どもの頃から使っていれば、何不自由ないのでしょうね。不思議。
とりあえず、20までは、フランス語もふつう。
0 zero ゼロ
1 un,une アン、ユヌ
2 due(X) ドゥ
3 trois トロワ
4 quatre キャトル
5 cinq サンク
6 six シス
7 sept セット
8 huit ユイット
9 neuf ヌフ
10 dix ディス
11 onze オンズ
12 douze ドゥーズ
13 treize トレーズ
14 quatorze キャトルズ
15 quinze キャーンズ
16 seize セーズ
17 dix-sept ディセット
18 dix-huit ディズユイット
19 dix-neuf ディズヌフ
20 vingt ヴァン
アイヌ語の数体系も、十進法に慣れた身から見ると、ちょっと不思議。7までは、日本語と同じ進み方。日本語の「個」にあたる「ペ」をつけて数えてみましょう。
1シネプ 1 個
2 トゥプ 2 個
3 レプ 3 個
4 イネプ 4 個
5 アシクネプ 5 個
6 イワンペ 6 個
7 アラワンペ 7 個
8は「トゥペサンペ あと 2 個で 10 個 」と言います。9は「シネペサンペ あと 1 個で 10個」、10は、 ワンペ 10 個。ホッネプ 20 個 。
40になると、フランス語と同じくかけ算が出てきます。40「トゥ・ホッネプ 2 × 20 個」。50は、「50 ワンペ・エレ・ホッネプ あと 10 個 で 3 × 20 個」。
100「 アシクネ・ホッネプ 5 × 20 個 」
世界の多くの文化では、両手の数「10」を基本単位とする数え方が主流ですが、アイヌ語は両手両足の数「20」が基礎単位であることがわかります。「100」が「5×20」でよいのなら、なぜ「50」は「5×10」じゃないのだ、と思いますが、それぞれの文化にそれぞれの数え方。「20」が基礎単位なので、50は、「20×3にあと10個足りない」すなわち、「手足の指が3人分にはあと10個たりない」と表現するのです。
このような数え方の違いを認識させるのは、「日本語学基礎」として、思考方法や言語表現は、それぞれの文化によって独特であり、自分の考え方ややり方がすべてではない、世界には多様なもののとらえ方があり、多様な文化があるのだと知らせるためです。数の表現と色彩表現は、文化によって様々です。
かって、石原慎太郎氏はフランス語の数の数え方を馬鹿にしたことがありました。この発言があったのは、都庁内で開かれた首都大学東京の支援組織の設立総会。祝辞のなかで「フランス語は数を勘定できない言葉だから、国際語として失格しているのも、むべなるかなという気もする。そういうものにしがみついている手合いが結局、反対のための反対をしている」と述べて、フランス語関係者から批判を浴びたのです。
自分のやり方考え方だけが正しくて、他者はダメだと決めつける。こういうのを夜郎自大と言います。
橋下大阪市長が「軍隊に慰安婦は必要だった。他国でも同じコトをしたのに、日本だけが非難を浴びせられることはない」と自分の主張を変えずに、世界中から総スカンをくらいました。6月中旬にアメリカ訪問する予定だったのに、アメリカの要人は、「こんな危険人物と会談したのでは、自分までが愚かな人間と思われてしまう」と、会談拒否が相次ぎ、ついに訪米断念。
石原氏も橋下氏と同意見だそうで、「維新の会」のものの考え方がよく表れた舌禍事件と思います。(橋下氏は発言によって傷ついた人へのおわびはするけれど、主張を変える気はないとのこと)。
夏の選挙シーズンに向けて、今後の票の数え方、さて、どのように数えるのでしょうか。
<つづく>
06/04
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばの知恵の輪・数え方の世界(3)指で数える
かって、ネパール人がクラスにいました。彼は「私の母語はネワール語です。私は、ネワール語とネパール語と英語が話せます」と言っていたので、ネワール語というのは、ネパール語の方言なのだろうと思っていました。「青森弁と京都弁と英語が話せます」と似たような感じなのかなと。
しかし、今年ネパール語を母語とするネパール人とネワール語を母語とするネパール人の両方がクラスにいたので、ちょっと気になって、両方の語の言語系統樹を調べてみました。すると、ネパール語はヒンディ語などとおなじようにインドヨーロッパ語族であるのに対して、ネワール語は、シナチベット語族で、全く別の言語であったことを知りました。
ネワール語もネパール語も、ネパールの公用語になっているけれど、ネワール語母語話者は、ネパール語を学ばねばならず、小学校教育から英語教育が始まるので、義務教育修了者なら英語も話せるとのことでした。
ネパール語の数字の言い方を教わり、書き方も知りました。「q 」というのが、「1」のことなので、びっくりです。「q 0 」とは、「90」のことかと思いきや「10」のことなんです。
世界中の数え方でおもしろいのは、指で数える方法。
日本人はたいてい、握り拳をつくり、1は人差し指を立て、2は人差し指と中指をたてます。薬指、小指の順に建てて、親指を立てるのが5にあたります。
しかし、国によって文化によって指の折り曲げ方が異なる。握り拳を作って、1は小指を立て、2は薬指、3が中指、4が人差し指、5が親指、という数え方がふつう、という国もあれば、1が親指立て、2が人差し指立てと、いく国もある。この方法だと、私はどうしても、4ができない。薬指を立てるのがむずかしい。しかし、この方式で数えている文化だと、容易に薬指を立てられるのです。自分が出来ないからといって、他の人もできないと思うことはない。逆もまた真。日本語母語話者にできることで、外国人学習者にとっては難しくてたまらないことはたくさんあります。
中国の指数え方法も独特です。5までは日本と同じですが、6は、親指と小指を建てて、中の三つを折る。7は、親指人差し指中指を立ててくっつける。薬指と小指は折る。8は親指と人差し指を立てて、あとは折る。(漢数字の八を表している)9は、人差し指だけを立てて、指先を少し折る。10は、人差し指と中指を立てて、二つの指を絡ませて重ねる。
留学生クラスのなかで気づいた、数え方の「指サイン」。指を折るのではなく、左手を広げて、右手の人差し指でタッチして数えるのもありました。日本語の数え方の指導をするとき、それぞれの指で数える方法を教え合って、小さな「異文化交流」の時間を楽しみます。
指の数え方もそれぞれの文化で多様だなあと思います。自分のやり方が唯一ではない。世界にはさまざまな文化があり、それぞれを尊重しあっていきたいと教えるのが、日本語教育学の第一歩です。
かって「日本がアジアの覇者になるべきだ」という為政者を信じて、強制的に日本語を押しつける教育を行った暗い時代がありました。「日本文化が最高のものである。文化の遅れた人々を指導してやるのが日本の役目。そのために日本語を教え、土地のことばなど話させないようにする」という方針でした。姓名までも固有の名を奪い、日本名を押しつけた地域もありました。「よだか」という固有の名を奪われ「あしたからはイチゾー」と名乗れと鷹に命じられた鳥には同情の涙を流しても、固有の名を奪われた人々がいたことを忘れようとしています。
私が担当する留学生のための日本語教室内では「その人がこう呼ばれたいという名で呼び合う」ことを基本にしているのは、「固有の文化を大切にし、互いの文化を尊重することが言語教育の基本」と信じているからです。
日本の数え方や助数詞を教えるとき、それぞれの文化の指での数え方を披露しあうのは、「みんな違ってみんないい」を確認するためです。
日本の小学校の教室では、金子みすずの「わたしと小鳥と錫と」が壁に貼ってあったりする所も多いのですが、現実には、ちょっとでも「教室内の空気」に反することをやろうとしたり、「大勢」と異なる態度であろうとすると、強い圧力が働き、排除される。クラスメートからも教師からも。
運動会の入場行進でバラバラに歩くのもダメ。音楽の時間に使うリコーダー、指定業者外の笛を購入するのもダメ(他の子とちがうと指導する音楽の先生が困る、という理由だとか)
むろん、教室では「みんなそろって」をやらないとダメな場合もあるのです。日本語教育でも「コーラス・リピート」といって、センセイの発音をクチをそろえてまねする練習があります。語学の基礎練習において、リピートは大切な方法です。
基礎ができてはじめて「自由発話」に応用ができるので。
センセイが「いっぽん」と言ったら学生も「イッポン」センセイが「にほん」といったら学生も「ニホン」。「さんぼん」と言ったら学生もくりかえして「サンボン」
イチボンや、ニポンやサンホンでは、今のところ「ダメです」とやりなおし。将来、すべてのものをいっこ、にこ、さんこで数える時代もくるでしょう。今のところは、「多様な数え方」を確認した後、「日本語ではこう数える」というのを、声を揃えて学ぶ毎日です。
そして、日本語教師は、留学生が「どうして、ホンとボンとポンと変わるのですか。不合理です。全部ホンでもいいのに」と質問してきたら、それにきちんと答える力量は必要です。漢字音の発音変化には、きちんとした法則があるからです。母語として自然にこの変化を身につけた人は気づかないうちに習得しているけれど、短期間で学ばなければならない日本語学習者には、「法則」を教えたほうがいい場合もあります。
<つづく>
06/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばの知恵の輪・数え方の世界(4)無量大数
子どもの頃、生活をしていて必要な数はせいぜい千の単位であり、小学生の時、はじめて父が1万円札の給料袋を持って帰ってきたときは、家中で新しいお札を眺めました。そして、マンの上には億という単位もあるのだと父に教わり、途方もない数だと思いました。億の上の兆は、中学生くらいで国家予算の額などを社会科で習ってはじめて身近な数になりましたが、日常の生活で億という単位が身近な話題になったのは、多くの人にとって1968年の三億円強奪事件がはじめてのことでした。
兆の上に京という単位があることを知ったのは、いつごろのことだったのか、覚えていません。京は日常生活とまったく関わりのない、宇宙の果ての単位でした。
それが、コンピュータを使うようになると、スーパーコンピュータの名前が「京」と名付けられ、一気に京が身近になりました。京とは、計算速度が毎秒1京回(10ペタフロップス)という能力を持つことを表しています。
私にはつい最近まで縁遠かった「大きな数」。しかし、ものごとを宇宙的な規模で考える仏教哲学の世界では、そのはじめから大きな数も哲学のうちにちゃんと存在しており、サンスクリット語でそれらの数をあらわすことばがありました。そのサンスクリット語を音漢訳したのが、漢字の数単位です。仏典により、そして古代の数学書などにより数の名前と大きさが異なっていますが、一般的には、以下の通り。
「下数」一 十 百 千 万 億(10の8乗)兆(10の12乗) 京(10の16乗) 垓 杼 穣 溝 澗 正 載 極(10の48乗)
「上数」恒河沙(10の52乗)阿僧祇 那由他(10の60乗)不可思議(10の64乗)無量大数(無限大)
小さい方の数、小数もあります。「1」を10ずつ割っていくと、
一、分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙、塵、挨、渺、漠、模糊、逡巡、須臾、瞬息、弾指、刹那、六徳、虚空、清浄、阿頼耶、阿摩羅、涅槃寂静
これでいくと、「刹那(せつな)の時間」とは、10の-18乗の時間にあたります。0.000000000000000000 1秒です。
子どものころの私には、大きい数も小さい数もとんと考えられず、二桁以上の数字の暗算もできない。今でも数字が出てくると、からきしわからず、頭が混乱してしまいます。
しかし、日本社会では、江戸時代の中頃、1627年に『塵劫記』という数学書が出版され、かけ算九九のような初歩から微分積分にあたるような高度な数学計算まで学べる数学書として、ベストセラー、ロングセラーになっていたほどで、数学に魅せられた人が大勢いました。
絵馬を神社に奉納したなかに、算額という数学の問題を書いて神様に奉る、というものがあります。参詣者は算額を見て、その問題を解こうとします。庶民の間にも数学熱が根付いていたのです。
全国の中でも、福島県埼玉県とならんで数多くの算額が現存する群馬県。
昔の群馬県の子どもは、「上毛カルタ」という郷土カルタを暗唱したもんですが、その中に「和算の大家、関孝和」という札がありました。よみ手は「わさんのたいか、せきこうわ」と発声していましたが、「労農船津伝次平 ローノーフナツデンジヘー」とともに、いったい何をした偉人なんだか、大きくなるまでよくわからなかったふたりでした。
関孝和は、吉田光由の『塵劫記』を独学して数学に才能を現しました。17世紀の世界において、西欧にも関孝和ほどの高度な数学者は数少なく、17世紀当時では世界最高峰の数学家のひとりでした。
遠藤寛子『算法少女』(初版1974復刊2006)によって和算の魅力が知られ、冲方丁『天地明察』(2009)によって渋川春海の名が知られるなど、和算への認知が深まっている昨今、私の大の苦手の数字ですが、ときには数の世界に身を浸してみるのもよいひとときの過ごし方だろうと思います。
ただし、私にとっての数とは、、、、月末支払い締め切りの家賃光熱費がない、、、、、、ああ、あと5000円あったら、、、、という小さな数字の世界に留まっております。相変わらずの小さな数字の世界。
<おわり>
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