はなこのアンテナ@無知の知

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自分が傷ついているからと言って

2008年01月08日 | 気になったニュース
何の関係もない人を傷つけるなんて…
明らかに向けるべき怒りの矛先が間違っているじゃないか。

5日(土)の昼下がりに池上線沿線の戸越銀座で発生した「通り魔事件」のことである。息子と同学年の少年が起こしたこの事件、同世代の子を持つ親としては衝撃的な事件である。第一報、続報と事件の背景として、「学校でいじめに遭っていた」「都内の精神科への通院歴がある」「事件直前母親とケンカした」等いろいろと理由付けがなされているが、事件の被害者の方々を見る限り女性や年配の男性等(報道では車椅子の女性にも襲いかかったという話も)、犯人の少年は明らかに自分より非力な人を狙っている。

おそらくこの事件の裁判でも、今後犯人の少年の「心神」の状態が問われるのだろうが、「血迷った状態」にしてはターゲットをシッカリ選んでいる。「通り魔」犯に共通して見られる傾向だ。つまり犯人は卑怯な人間ということだ。立ち向かうべき相手が間違っているだろう?自暴自棄になって自滅するのは本人の自由だが、何の関係もない他人を巻き込んで自分の道連れにするのは手前勝手な論理である。「病」の為に「社会的動物としての理性」が失われ、「弱肉強食の本能」に従ったとでも言うのだろうか?「通り魔事件」では「薬物中毒や通院歴を持つ犯人が多く、心神喪失などで無罪になるケースが多い」と聞く。

「罪を憎んで人を憎まず」「病がそうさせた」と言うが、被害者の立場からすればたまったもんじゃない。今回の被害者にしても季節が冬で厚着であったことも幸して身体的には軽傷で済んだが、その精神的ダメージは計り知れない。どんな背景を抱えていたにせよ、犯人は犯した罪は罪として償うべきなのではないか?少なくとも何事もなかったかのように彼らが再び街に放たれるのは、被害者にとって恐怖以外のなにものでもない。それは被害者の「事件からの立ち直り」の最大の疎外要因となるだろう。

人は誰もが過ちを犯す可能性は持っている。その前提に立っているからこそ、犯した過ちを悔改めれば赦されるチャンスを、人間社会は司法という枠組みの中で与えているのだと思う。その意味で、精神疾患を理由に事件を起こした犯人への処遇はデリケートな問題だ。実際のところ、過去の「通り魔」事件で心神喪失を理由に無罪放免となった犯人達がその後どのような処遇を受けているのか不明だが、彼らが何事もなかったかのように街中で日常生活を送るのは納得が行かないし、一市民としては不安である。医療機関で治療を受けるにしても一般の病院ではなく、少なくともその罪状に対して本来与えられる量刑相当の期間、医療刑務所のような拘留施設等で社会から隔離する必要があるのではないか?

親としての立場で考えた場合、我が子がたとえ卑怯ないじめにあったとしても、それに打ち克つだけの精神的な逞しさを身に付けさせなければとつくづく思う。大人になればもっと過酷な現実が待っているのかもしれないのだから。子供社会、大人社会を問わずいじめが存在している昨今、いじめごときで挫折してどうする?位の気概が大人にも子供にも必要なのかもしれない。

「弱い者いじめ」する奴なんて所詮皆、自分の心の弱さをひた隠すために他人を傷つけているだけなんだから。弱虫で卑怯なだけなんだから。そんな卑怯な奴等と同じ所まで墜ちてしまうことほど悔しいことはないぞ!

世の中では、いじめによる精神的ストレスを克服した人、或いは、いじめによって心に傷を負いながらも自らの心の問題に折り合いをつけて社会の一員として頑張っている人が殆どだ。今回の事件のように、自分の怒りを何の関係もない他人に向けて短絡的に犯罪に走る人なんてごくごく少数だ。少数のケースだからこそ、センセーショナルに報道される。自分も含めて世の親たちは、こうした事件に動揺することなく、互いに協力しあって、しっかり子供達を育てて行けば良いと思う。
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