
息子の薦めもあって、遅ればせながら見て来た。
原作を読んでいなくても独立した映画作品として
十分楽しめる作品だった。
テンポ良く物語は進み、最後まで適度な緊張感を持続して
見ることができた。手堅い演出だったのではないか?
原作を読んだら、また印象は違って来るかもしれないが、
少なくともこの映画を見て、原作を知らないで見た人の多くは、
原作に興味を持ったはずだ。
まるで私の心を見透かしたように、映画を見終わった私に、
息子が原作マンガを差し出した。
原作マンガの方が断然面白いし深いから、と。
今読んでいるところです。画はあの『ヒカルの碁』を
描いた小畑健なんですね。絵の上手さには定評がある。
彼の画集は美大の図書館にも所蔵されている。
◆◆◆
退屈しのぎに死神が落としたデス・ノートを
偶然拾った夜神月(ヤガミライト)。
そのノートに名前を記された人間は死ぬと言う。
全国でもトップレベルの頭脳を持つライトは、
自分と直接関わりがなく、世の中にいても仕方のない人間、
という選択条件で、犯罪者をターゲットに名前を書き連ねて行く。
それに呼応して、日本を中心に世界的規模で犯罪者達が
謎の死を遂げて行き、その結果、世界では犯罪が激減…
でも…ふと思った。
死が犯罪者にとって必ずしも恐怖ではなかったとしたら…
あの大阪・I小で起きた大量児童殺傷事件の加害者T。
彼には異例の早さで死刑が執行されたが、
生前の彼は死を恐れるどころか待望していた。
世を呪い、人を憎んで、自分とは何の関わりもない
罪もない児童を自らの死の道連れにしたようなものだ。
死ぬまで彼の口からは贖罪の言葉は一切なかった。
世の中には、恐ろしいことだけど、
彼のような人間が少なからず存在する。
そんな人間に対して、このデス・ノートの持つ魔力は、
犯罪の抑止力にはなり得ないのではないか?
◆◆◆
全国でも有数の頭脳を以てしても、
デス・ノートの魔力をコントロールすることは不可能だ。
魔力を得たことで、ライトは徐々に精神のバランスを失って行く。
彼自身が最も恐ろく冷徹な大量殺人者へと変貌して行く。
この作品には、人間が人間を裁くことの限界を感じる。
マンガだからとは侮れない、深いテーマ性を有した作品だ。
マンガとは、(その原点は万葉の時代に遡るとしても)
現代に確立された新しい表現様式なのだろう。
小説にも、映画にも、その他多くの既存の表現様式にも
けっして劣るものではないことを、
こうした作品の存在が証明していると思う。
今、ストーリーテラーの才能は、その多くが
マンガ界で花開いていると言えるだろう。
人気マンガの実写ドラマ化が近年相次ぎ、
高め安定の人気と実績を残していることが、
図らずもそのことを示しているのではないか?