kouheiのへそ曲がり日記

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無駄な学問はない

2012-02-13 10:17:15 | 日記
僕はある医療技術短期大学で非常勤講師をしていたことがある。
社会学を担当していたわけだが、社会学は必須科目になっていた。
つまり社会学の単位をとらないと卒業できないわけだ。

四月のある日、講義初日を終えて黒板を消していると、二人の女子学生が何か意を決したという面持ちで教壇の僕のところへ近づいてきた。

「先生!」
「ん?何ですか?」
「私たちは看護師になるんですよ!なぜ社会学なんてやらなきゃならないんですか!?」

僕は、この娘らはなんて知的レベルが低いんだろう、と強烈な脱力感に襲われた。

彼女らにとって「学問」は苦役なのだ。
だから「学問」をやるのには、それが仕事(金儲け)にいかに役立つかが納得できていなければならないのである。

ったく、愚か者どもが・・・(唾)
こんな奴らは損得利害打算と快・不快の原理だけで生きていくのだ。
こんな看護師に看病される患者が可哀そうでならぬ。

僕は高校に入学してから、中学までは得意だった理数系の勉強が全然できなくなった。
授業を聴いても、参考書で自主学習しても、てんでちんぷんかんぷんの場合がほとんどだった。

だが僕は高校で数学を学んでよかったと思っている。
なぜなら高等数学を学ぶことによって、深く考えなければ僕個人の生活上は足し算・引き算・掛け算・割り算と九九だけで事足りるように思われたのだが、いやいや世の中には僕には理解できないが、それでいて生活上必要欠くべからざる偉大なる<知の体系>があるのだということが理解できたからである。

だいたい「学問」を苦役ととらえる精神がおかしい。
この地球上には学校で学びたくても貧困・旱魃・内乱等々の理由で学校に行けない子供がどれほどいるか。
そういう子たちのことを考えたら、大学へ通わせてもらって自由に学べるということがどれほど恵まれたことか分かるはずである。

本来「学問」できるということは喜びのはずであり、自分には理解できない大いなる<知の体系>があるということを知ることだけでも、それは「学問」した成果なのである(合掌)
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幼い大学生

2012-02-09 09:41:22 | 日記
僕が大学院に在籍していた頃、学部生による卒業研究発表会なるものが催された。
当時助手だったFさんの発案だった。
学部生が各々の卒業研究を発表し合い、院生がその問題点を指摘したり、アドバイスを与えたりするというものであった。

我が母校はかなり偏差値の高い有名国立大学であったが、僕は学部生の知的レベルのあまりの低さに唖然とさせられた。
・・・だが今考えると、なまじっか学問してしまうと会社へ入ってから困ることになるから、あれでよかったのかもしれない。
とにかく受験勉強ができるということと、論文を書いたりする本当の学問の才能があるということは、全然別のことだということがよく分かった。

そんな、がっかりさせられるばかりの学部生たちであったが、そのなかに一人僕を猛烈に失望させた奴がいた。
そのOという学部生は「社会学なんか勉強して何になるんですか?」と言い放った。

我が母校の文学部は、初めは文学部ということだけで学生をとり、入学一年後にそれぞれの専攻を各自がみずからの希望によって決定するということになっていた。
社会学専攻は新聞社などに就職する者も多数おり、文学部のなかでも人気が高かった。

Oも自分で希望して社会学専攻に進級してきたのだ。
それが「社会学なんて勉強して何になるんですか?」とは・・・。

まぁ、当時は年功序列制と終身雇用制がまだ崩れてはおらず、Oにとって大学とは人生最後の四年間の長期休暇を保証してくれる機関であり、学問して何か成果を得るとかそういうことは論外で、ただ大学卒の肩書のみがほしいだけであり、それを足がかりにいい会社へ入りたかっただけなのであろう。

だからこそ「社会学なんて勉強して何になるんですか?」などというセリフがでてくるのだ。
僕はこう言ってやった、「簡単な話や、そんなこと言うのであれば初めからから大学なんて入ってこなければよかったんや」と。
Oは二の句が継げないでいた。

どうも金儲けだけが物事の有用性を決める基準になっているようだ。
拝金主義がはびこっている。
理科系の場合、メーカーの研究所などに就職して新製品の開発に携わり、うまくいけばヒット商品を世に送り出し金が儲かる。
Oなどの幼児大学生にとっては、こういうことのみが学問する意味なのである。

・・・なんと愚かな・・・。
我々には基本的人権が認められている。
自然科学的営為によっては「基本的人権」などというものはまったく導出されない。

思想・信条の自由、表現の自由、集会・結社の自由、職業選択の自由、主権在民の原則、男女平等の原則、徴税における公正の原則等々、これらはすべて哲学的・社会科学的営為によって打ち立てられた成果なのだ。

・・・そういえばうちのお袋も「哲学なんて意味がない」と言っていたっけ。
日本では一度も民衆が血と汗と涙を流して自由を勝ち取ってないもんな・・・。
Oがああいう無知学生になったのは本人のせいというよりも、日本の伝統のせいというべきか(嘆)
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成熟した大人の宗教

2012-02-06 13:35:29 | 日記
僕の知り合いに天理教徒がいる。
彼によると、ひのきしんに励み、善行を積んだ人間には病が治るなどいいことが起こり、不足を積んだ不信心者には病気・怪我などの災難がふりかかるのだそうだ。

これが天理教の公式見解だとすると、はっきり言ってこの宗教は「幼児」の宗教だと言わねばならぬ。
なぜなら、善行を積んだり不足を積んだりすることで神が幸福を与えたり悲惨な目にあわせたりするというのであれば、人間が神をコントロールできるということになり、そんなもの「全能の」神でも何でもないからである。

成熟した大人の宗教の神は、「遠くに」おわす。
信者である人間がどういう生き方をしようと、その者がどんな目に会うかはまったく分からない。
いいことしたって死ぬときゃ死ぬし、悪いことしたおしても宝くじに当たるときゃ当たる。

したがって成熟した大人の信者は「御利益主義」で信仰することはできないのである。

それじゃあ誰も信仰などしなくなるではないかと言う人は「幼児」である。
まず神がおわし、それから宇宙ができ、次いで人間がつくられたのだ。
遠くにおわすから人間などには測り知れないが、とにかく支配原理は神の内にある。
それゆえ御利益があろうとなかろうと神の教えどおり生きなければならないのである。

勘のいい方はお気づきになったやも知れぬが、成熟した大人の信者は、善良な無神論者と一見見分けがつかない。
なぜなら成熟した大人の信者にとっての「神」は無限の彼方におわし、「無」と紙一重だからである。

僕は若いころ「宗教をなくすためにはどうすればいいか」というテーマを掲げて勉強していたのであるが、このごろはもう諦めている。
いや、諦めるというより明らめる、と言うべきか。
とにかく「幼児」の宗教を、無神論を媒介させて、「成熟した大人」の宗教にアウフヘーベンするべく努めるのがさしあたっての僕の仕事ということになるのかもしれない。

すべての信者の皆さん、成熟した大人の信者は御利益を求めない者でありますぞ(合掌)
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ファナティスムによって死んでいった人々

2012-02-03 19:26:14 | 日記
僕はときどき、ファナティスムによって死んでいった不幸な人々について考える。
なぜなら僕も前衛芸術を愛する少数派であり、いつ被害を受けてもおかしくない立場にいるからである。

クリスチャンによる魔女狩り、スターリンによる血の粛清、ナチスによるホロコースト、毛沢東による文化大革命、マッカーシーによる赤狩り、ポルポト派による大虐殺などなど・・・このほかに比較的小規模な事件まで含めると枚挙にいとまがない。

ただ単に殺すのではなく、「熱狂的に」そして「残虐に」殺すのである。
いったいなぜか?
・・・ひとことで言ってしまえば、熱く酷く殺せば殺すほど、自分の属する集団の統合力が強まるからである。

僕は根っからの個人主義者だ。
集団のファナティスムに簡単に巻き込まれる奴らが大嫌いである。
サッカーのフーリガンなど、見ているだけで胸糞が悪くなる。

拷問を受けて理不尽に殺されていった人々は、どれほど辛かっただろうか?
それでも<神>がおわすと言い張るのか、あなたがたは!?

まぁ、いいさ、僕がどんだけ力んでも、宗教がなくならないのは分かっている。
人間はつねに不完全であり、そのくせなまじっか知性があるばかりに、全世界の構造を知りたいのである。
であれば信仰をもつのが、いちばん手っ取り早い精神安定剤だからね。

<基本的人権>など幻想と言えば幻想であるが、とにかく地球上のなるべく多くの人々に確信されれば、ファナティスムによる死は減っていくであろう。
すべての人が基本的人権を尊重する日の到達が近からんことを衷心より祈ります(合掌)
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人恋しい寒い夜

2012-02-02 14:03:48 | 日記
僕ももう53歳だ。
自分に正直になってもいい頃だと思う。

寒さのせいか、夜寂しい。
人恋しくて堪らない。

あれほど共同体規制を嫌悪し、大の人間嫌いだった僕がだ。
自分でも不思議でしょうがない。

ラサール石井さんは若い娘さんと結婚したが、それは「孤独死が怖かった」からだそうな。
昔の僕なら嗤っていただろう。

でも今の僕には、とても他人事とは思えない。
それは僕にとっても切実な問題である。

顔貌なんてどうでもいい。
やさしくて常識があって、しゃべり方に好感がもてればいい。

母によると、家の親父はいっさい浮気をしたことがないという。
僕もその血をひいている。
浮気なんてしない。

いや・・・結婚でなくてもいいのだ、一緒にいられれば。
事実婚でもいい。

とにかくホント寂しい。
寒さが身と心にこたえます。
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