kouheiのへそ曲がり日記

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個人的な価値の貨幣等価物Ⅱ

2005-10-24 11:07:00 | 日記
先に現物給付から貨幣給付になるに従って給付者が自由になることを考察しましたが、このことは給付者にとって不利に作用する面もあります。
たとえばアテネの同盟仲間の凋落は、戦艦と兵役の貢納が貨幣納入に取って代わられたことに原因があります。
彼ら自身が軍事力の担い手であれば、当然自らに不利な軍事力の行使は行われませんが、そうでなくなれば(義務が貨幣納入のみになれば)、自分たちにとって不利な軍事力行使が可能となるからです。
また、現物給付において個人的な感情に基づく義務履行が行われ、これが双方にとっての人格的結合をもたらし、そこに品位ある人間関係が構築される場合、これが貨幣給付に取って代わられるに従い、そこには品位のない義務のみが残されることになります。
すなわち貨幣給付は、それぞれの出発点と内容とに従って、我々には完全な自由の担い手としてとともに、完全な抑圧の担い手としても現れる場合があるのです。
農民にとって土地とは単なる財産以上のものです。
土地によって彼は生活目的・生内容を具体的に指示されます。
これが貨幣によって買い取られるや、農民は具体的生目的を剥奪され、彼にはプロレタリアートへの道しか残らなくなるのです。
つまり貨幣による拘束からの解放は「○○からの自由(消極的自由)」にすぎず、自由とは同時に「○○への自由(積極的自由)」でなければその意義をもたないのです
現代の我々は、以前の時代よりも格別の自由を手にしましたが、しかしその自由をわずかしか楽しんでいないのです。
ところで、業績とそれに与えられる対価としての貨幣量は、しばしば合致しません。
芸術家は作品を鑑賞者に提供する場合、その報酬としての貨幣のみでは満足しません。
彼は同時に賞賛を求めます。
政治家も医者も教師も、貨幣報酬以外に尊敬を求めます。
しかし貨幣は、貨幣に換算できない個人的価値をも乗り越えて行くだろうと予想されます。
あらゆるものを相対化する絶対的なものとして。
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