kouheiのへそ曲がり日記

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個人的な価値の貨幣等価物Ⅲ

2005-10-25 09:40:00 | 日記
社会主義は労働を価値の源泉として、労働貨幣を提唱します。
製品の価値を貨幣によって抽象的に表現することにかわり、これを具体的に表現することは可能なのでしょうか?
マルクス主義においては「労働力」と「労働」とは概念的に区別されます。
なぜなら資本家が労働力を賃金によって買い取り、労働によってそれ以上の価値が生じ、その剰余価値を資本家が手中に収めるという学説にとって便利だからです。
だがいかなる労働力も労働が実際に行われなければ無意味ですから、ここでは労働のみを考察することにします。
机が製造されるとき、職人の心的エネルギーがたしかに作用します。
だが見落としてはならないのは、机の原型を案出した先達の心的エネルギーのお陰で机の生産は可能となるが、これが伝統となれば、無料になるということです。
これは思想と同じように、いわば超経済的な精神的価値であり、損耗の問題はありません。
では精神労働は筋肉労働に還元できるでしょうか?
すべての生産物を互いに秤量するためには、価値を測る唯一の基準が示されなければなりません。
社会主義はこれを労働に求めます。
では製品の質の問題はどうなるのでしょう?
明らかに高品質の製品と低いそれとの相違があります。
社会主義理論は、労働量の多少をその製品価値の多少として完全に説明できなければなりません。
ヴァイオリンの名手の演奏は非常に安楽な労働に見えますが、しかし彼がそこまでになれたということは、非常に長い訓練期間あってのことです。
また高級な労働としての職業のカテゴリーがありますが(学者・官僚・芸術家など)、これも低級な労働と比べれば、先行世代から脈々と受け継がれてきた業績をその基礎にもっており、長いスパンで観れば、それだけ多くの労働量が注がれているということに理由付けを求めることができます。
また、どんな精神労働も筋肉労働によってもたらされる生産物なしではなされることはありません。
したがって筋肉労働を単位として精神労働価値を測ることはできるはずです。
このことを精神労働を貶めるように感ずる人もいますが、どんな筋肉労働も怠惰や浪費的享楽からの誘惑の断念に基づかなければ成り立ちません。
どんな筋肉労働も心的緊張を必要とします。
精神労働の筋肉労働への還元は決して前者を貶めるものではないのです。
だが社会主義社会においては、人民がより多く必要とするものはより多く、少ししか必要としないものは少なく生産することによって、需要と供給のバランスをとるとされますが、貨幣によって促進された個人の分化にはどのように対応するのでしょう?
これが社会主義の労働貨幣にとっての難問です。
なぜなら個人的な価値に対する疎遠性が、貨幣の無性格性という本質となるからです。

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