仏教者の最終目標は、解脱し涅槃の境地に至る、つまり悟りを開くことである。
これは日本独特の考え方なのかどうか僕は寡聞にして知らないが、悟りを開いた者は怒らなくなる、悲しまなくなると考えている人が少なからずいるようだ。
そんなことはない。
悟りを開いていようとも、腹の立つときは立つし、悲しみの涙も流れる。
それでは仏教の修行なんて無意味だと思われますか?
いやいや、仏教の修行をした者は、腹を立てても仏の怒りを怒れるのである。
悲しみの涙を流しても、真珠の涙を流せるのである。
僕はまだ悟ってはいないが、それでも仏教の教えに触れ、だいぶ変わったと思う。
以前は過去について怒り狂っていた。
悲しくて悔しくて堪らなかった。
そうして自分自身を傷つけていた。
だが最近は、自分を傷つけずに怒れるようになった。
悲しいときもあるが、仏様の手のひらに抱かれて悲しめるようになった。
とにかく、悟ると無感情になるというのは大いなる誤解なのである。
これは日本独特の考え方なのかどうか僕は寡聞にして知らないが、悟りを開いた者は怒らなくなる、悲しまなくなると考えている人が少なからずいるようだ。
そんなことはない。
悟りを開いていようとも、腹の立つときは立つし、悲しみの涙も流れる。
それでは仏教の修行なんて無意味だと思われますか?
いやいや、仏教の修行をした者は、腹を立てても仏の怒りを怒れるのである。
悲しみの涙を流しても、真珠の涙を流せるのである。
僕はまだ悟ってはいないが、それでも仏教の教えに触れ、だいぶ変わったと思う。
以前は過去について怒り狂っていた。
悲しくて悔しくて堪らなかった。
そうして自分自身を傷つけていた。
だが最近は、自分を傷つけずに怒れるようになった。
悲しいときもあるが、仏様の手のひらに抱かれて悲しめるようになった。
とにかく、悟ると無感情になるというのは大いなる誤解なのである。
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