吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

韓国旅の風景 八十三

2006年06月27日 15時18分03秒 | Weblog
韓国旅の風景 八十三                          

 韓国の食べ物 その九
 朝鮮柿
 市場の片隅にゴザを敷いて冬になると農村からやってきた老婆が干し柿の山盛りに千ウオンの張り紙をして売っている。
 日本でも私の田舎の土佐の山奥のでは堅いしなびた小さな干し柿しかとれないが東北の本場へ行くと、生菓子のように柔らかく粉をふいた大きな干し柿が藁にとおしたまま売っている。
 朝鮮半島の柿は、どちらかと言えば全羅道、慶尚道のように南部に偏って産出する。
 対馬の貿易記録には朝鮮から輸入の干し柿の通関記録がのこっている。束とか貼とかの単位で柿の品種別に分けて書かれている。『八域誌』。それらの柿は甘柿か渋柿か判然としないがしぶ柿の渋は乾燥過程で飛んで甘い干し柿になったものと思う。
 市場の老婆が持参したのは、皮を剥いて乾燥したものを藁とおしをしてそのまま自然乾燥をへたものである。
 小粒で堅そうである。
 そのほかにも、焼酎を吹き掛けて密閉して置く。
 四十度くらいの湯に十数時間漬けておく。
 干し柿について面白い体験話がある。旧制中学の同級生のN君とM君が偶然北海道に帰郷する東北線の列車で一緒になった。と言ってもM君が千葉の親戚から貰った握り飯包みをほどいていざ食べようとするといきなり手が伸びて包みの握り飯の一つを鷲掴みにした。 この野郎!と振り向くと、N君が将校服のままにっこり笑って持参のバッグから干し柿を掴んでN君の前に投げつけた。
 握り飯を無断で横取りした礼のつもりだ。
 N君は朝鮮の釜山の勤務地から復員の途中で、M君は千葉の海軍陸戦隊からの復員だった。
 同級同士と分ってあとは仲直りの談笑に入ったと言う。
 M君は後であの時の干し柿は堅くて食えんかったよ!とつぶやいた。

韓国旅の風景 八十二

2006年06月27日 05時31分43秒 | Weblog
韓国旅の風景 八十二                           

 韓国の食べ物 その八
 ビビンパブはキムチと冷麺と並んで三大料理と言って良い。しかし個人的な好みからすればキムチ以外はそれほど魅力を感じないのは私の体質がまだヤマト食文化に染付けられてこの不思議な食べ物…それは栄養的に満点の優れものなのに…に拒絶反応をしめしているにほかならない。
 そもそもビビンパブとは混ぜ御飯の事である。
 昔、日本でも米の炊飯は釜を使ったものである。当然、お焦げが釜の底にこびりつく。 子供の頃、ミシン工場をやっていたわが家では女子工員のために朝、五升炊きの大釜でご飯を炊いた。
 香ばしいご飯の湯気と香りに誘われて炊事場に行くと、竈の薪は燃え尽くして星空のように竈の煤がちらちら点滅している。母はお櫃に大箆でご飯を移している。待ちどうしいお焦の香りでおなかがぐっと鳴る。
 やっと狐色のお焦がそぎとられると小さくにぎって塩をまぶして…ほんとにこの子は、ホレ!…と母は言いながら私の手に乗せる。 
 石鍋のビビンパブも同じである。色とりどりの具をかき混ぜながら鍋底にこびりついた香ばしいお焦が堪らないのだ。
 そもそもこの料理は李氏朝鮮王朝の昔、農村で副食を小皿に分けて並べる手間を省く為に、ご飯の上にごちゃごちゃ副食を盛ったものだった。
 なんでもご飯の上にするところから骨董飯となった経緯があると聞いた。
 骨董屋にはなんでもごちゃごちゃ日常の品々がおいてあるのでそう名ずけたのである。 全羅道全州(チョルラドチョンジュ)はビビンパブのメッカの地である。全羅道の北部にある道庁所在地のこのあたり一帯は韓半島の米所で慶尚道の学問の盛んな地域に比べ農業条件に恵まれた肥沃の地、そして渓谷の水が全州境界に流れ込んで昔から気候も清涼の地だった。全州を始め全羅一帯は百濟の地であり、ほかの道に比べて昔から、その性格がずるがしこいと言われ差別されてきた。しかし全州から李尚真(イサンシン)と言う宰相(議政府…首相)も出ている。
 さてビビンパブは全州最大の名物料理で韓国政府お墨付きの会館まである。
 日本の混ぜご飯に使う味付けスーブとビビンパブとでは大きな違いがある。
 牛のあばら骨を徹底的に煮込んでとったスープで炊くご飯のおいしさの秘密がそこにある。