吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

韓国旅の風景 五十六

2006年06月09日 13時05分11秒 | Weblog
韓国旅の風景 五十六

 韓国誌の謝礼                                  慶応大学出身の現代韓国人気質というかもろもろの民族性格について書いた本に接した同じ韓国研究家の川島正平氏の感想のなかに、翻訳本の印税トラブルが書いてあった。
 韓国人の印税にかんしての出鱈目?ぶりの交渉についてであった。それほど大袈裟な話ではないが『韓国美の風景』と題して韓国の民俗、人間性にふれ、韓民族の諧謔性をほりさげた本を私は書いて、この本を韓国の知人に贈呈した所、『今月の韓国』…日、英、韓の三ケ国語…と題する大韓航空の機内誌の編集発行人から依頼があって、その月刊誌に一部連載を…とあったので、日本人の野人が見たあるがままの韓国の美をより多くの方に知っていただくべく許可をした。
 翌月から掲載がはじまったが驚くなかれ、私のエッセイのなかで都合のいい、よく読まれそうな部分をすっかりコピーしてそのまま掲載したのである。
 いくら当時の出版事情が日本より劣っているとは言え、驚いていると、さらに驚いたのは訪韓した時にホテルに訪ねてきて…ほんのお礼です…と言ってさしだしたのが、ウナギ皮製の財布だった。時価にして二百円くらいのものである。
 雑誌編集人となればいかがわしい雑誌としても、編集者の良識は無学文盲ではあるまいし、日本の常識は通用しないにしても、物凄く単純なその発想ぶりに思わず苦笑を禁じ得なかった。
 そんなことがあって五年後、韓国観光公社の韓国にかんする観光紀行文の全世界対象の懸賞論文募集に応募して入賞した時の賞金は(原稿枚数、十枚)F県の文学賞受賞賞金の三倍もあり、立派なハングル文字入りの盾もいただき、韓国観光公社の東京支店で祝っていただいたので『今月の韓国』のナンセンスは帳消しになった。
 常識について山本七平の素晴らしいエッセイがあるが、常識の内容は時と場合で千変万化するにしても、韓国人を論ずるにはたんに日本人の常識を超えた、それもいろいろな過去の歴史認識も絡んでいちがいにのべられない。
 三日の韓国、十日の韓国、百日滞在の韓国、五年滞在の韓国、民俗学者、比較文化研究家、経済評論、などなどそれぞれのもつアイデンティテイによって、ほんとの答えなんかでっこないと私には思える。

韓国旅の風景 五十五

2006年06月09日 11時48分58秒 | Weblog
韓国旅の風景 五十五

 緊張 その二                                  これも三十八度線近くの釜谷面の窯場へ行った時の体験だ。             釜谷面は周囲が雑木林に囲まれた寒村だった。山間のわずかな平地のそれこそ猫の額のように小さな畑地に野菜を植えたり、水田も皆棚田、炭焼きや雑木からとる薪などで細々と生計を立て、農民は殆ど出稼ぎでくらしていた。
 したがってS先生がこの地に窯を開いたのは、一九七〇年の二月、義父のH氏の資金援助で二千坪ほどの土地を極安価格で手にしたのである。
 日本の窯場の数十倍はある大規模の窯場である。
 周囲は城壁を思わせる煉瓦塀をめぐらせ、丘陵の部分は勾配なりに煉瓦塀が奥の雑木林のかなたに消えている。
 広い庭は高麗芝に覆われて、中心に二階建ての工場(コンジャン)がある。
 韓国では焼きもの窯場はすべて工場と呼んでいる。
 それぞれ分業になって、陶土採取、水簸(よき陶土を作るための水簸場)ロクロ、燃料、成型、工、絵つけ工、象嵌、釉薬係、などを統括し窯全体の総合的製作に携わっている。 しかし公害や燃料の関係で日本の技術者からガス窯に転ずる窯が増えつつ有る。
 釜谷陶房も昨年からガス窯になったが登り窯は参考に保存されている。閔山(ムンサン)街道の分岐点には武装した兵士が検問していた。ここはわずか十年前に北朝鮮軍が韓国部隊に変装してソウルまで侵入した要衝である。
 形どうり、どこからどこまで行くのか、カメラの所有者は誰か、何の為のカメラか、といろいろ尋問を受けた。H氏が日本からの客と説明するとすぐ顎をしゃくった。
 窯近い丘陵に横に掘った塹壕があり、迷彩服の兵士がずらっとならんで銃を構えている。 途中に何か所もの部隊衛門があり、すべて予備役部隊名が墨書になっていた。
 ここの辺り一体はソウルから約五十キロもあり、昔も今も郊外とされていた。
 李朝時代に郊とは都から離れること十里以上の地を言う。

韓国旅の風景 五十四

2006年06月09日 06時43分06秒 | Weblog
韓国旅の風景 五十四

 緊張 その一                                   三十八度線をはさんで軍事緊張が続いていた七十年代のソウルは戦前の日本を思わせる軍部統制で、夜、十二時になると一斉に交通は遮断、ホテルの窓から市庁舎前の広場を見ていると六叉路のどこから姿をあらわしたのか警察官によってあっという間にバリケードが張られ、人影も車もいっさい姿を消した。市民もタクシードライバーも戒厳体制に慣れていて、制限時間の五分前くらいには姿は殆ど見られない。要衝ごとに張られるバリケードを計算して事前にどこかで停車かしかるべき安全地帯に避難するのである。
 三十八度線をまたぐ秘密トンネルにはカナリア鳥篭が所々に設置され、北からのガス対策がなされていた。
 そんな頃、急用があって私は金浦国内線で釜山へ飛んだ。
 ゲートでいきなりカメラを没収され、機内の窓は遮蔽され、乗り合わせた乗客の大半はビジネスマンで誰もが機内で新聞をひろげている。
 これはすべて、北のスパイ防止のための措置だった。
 韓国の地形を空から見られるのは、萩上空から日本海に出て、東海海岸から江原道へ入り三十分後に金浦空港に到着する間だけである。
 春川市は江原道庁の所在地で人口も約、二十万はある。その手前には人口湖が点在、大きなダムもあるが機内窓は開放されたままだった。
 カメラは釜山空港をでる時に返してくれた。
 釜山近くの草梁里の倭館跡は公園とたてものが雨にけむっていただけである。
 五百年の昔、ここに対馬藩士が五百人も滞在してたとは…その昔時をしのびながら、その日のうちに釜山空港から金浦へ飛んだ。