吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

韓国旅の風景 四十一

2006年06月01日 12時28分01秒 | Weblog
韓国旅の風景 四十一

 地図を作って獄死
 十九世紀のはじめ、幕命で蝦夷地をはじめ、全国の沿岸測量を実施して、『大日本沿海奥地全図』を完成した江戸後期の測量家で地理学者の伊能忠敬を知らぬ人はおるまい。
 一方、朝鮮の李朝政府の高宗時代(一八六四~一九〇七)に朝鮮黄海道(韓国京畿道の北部…現在の北朝鮮人民共和国)出身の金正浩(キムジョンホ)は独学で測量技術を習得して朝鮮全土の地図製作に三十年間も従事してついに『青丘図』…朝鮮図を完成、そののちより正確な『大東興地図』テドンヨジドも作成、独力でそれを出版刊行した。
 その頃は日本と清国との間の日清戦争、その十年後の日露戦争、高宗の妻、閔妃の日本官憲による殺害事件など内外ともに緊迫した情勢だった。その為か、金正浩は王命によって捕らえられ獄死する悲運にあって地図の各版は没収されてしまった。
 緊迫した情勢にあって朝鮮全土の地図は日本をはじめ虎視眈々と東洋に良港を求めて日本の勢力を阻止せんとロシアを控え、機密の漏洩につながる恐れありと国の神経が過敏になっていたのだろう。
 東洋の優れた二人の地理学者の一人は幕府に評価され、文化の発展に寄与したのに反して李氏朝鮮王朝は一人の天才地理学者を抹殺した。
 江戸幕府の為政者は思想的に儒学の影響はさほど受けていないにたいし、李王朝は徹底した朱子学を背景に、両班の士禍闘争にあけくれ、自国を国際的視野にたってみつめる余裕がなかったと言える。
 一八六六年にフランス軍による江華島への攻撃をはじめ、ヨーロッパの攻勢に対して、日本は形勢不利と見ていち早く、ヨーロッパ文明の採択に走り、一方朝鮮は相変わらぬ両班貴族の勢力争いに終始してヨーロッパ文明の招来が立ち遅れた。
 これは朝鮮近代化における大きなマイナスであろう。
 このことはのちに日本が朝鮮を併合する運命を内含していたとも言える。

韓国旅の風景 四十

2006年06月01日 08時32分17秒 | Weblog
韓国旅の風景 四十

 綿花
 子供の頃、朝鮮半島についての知識は、地理が好きだったので京釜線はどこからどこまでとか満州国境年の新義州、豆満江、それに農村のシンボルとしてのオンドルのある風景などなど、そして白いチマチョゴリの民俗衣装…そんな中で産業、農業生産物の綿花がつよく印象ずけられた。
 朝鮮半島の特産物は綿、と子供心に強い印象が残った。
 朝鮮で栽培されてなぜ日本で栽培できないのかが不思議であった。
 調べて見ると、朝鮮半島の綿花栽培は、高麗末期の十四世紀と記録されている。
 文益漸(ムンイクチョム…一三二九~一三九八)が高麗王、恭愍王(コンミンワン)の使臣として元を訪れ、三年後に帰国する時、綿花の種を筆管に入れて持ち帰り、生まれ故郷の慶尚南道山清郡丹城面沙月里で綿花栽培に成功、それが朝鮮半島における綿花栽培の始祖となった。
 李朝になってから、その紡績法も次第に発達し、対日本の重要な貿易品目となった。
 文益漸は文科の科挙に合格、正言の位についた大学者であった。
 ほかにも柳馨遠(ユーヒョンウオン)なども農民と一体になり、土地改革、農民の税制改革、全羅道扶安の知事に出世しながら晴耕雨読の傍ら著述に励んだ学者だった。
 前の項で両班を揶揄したり、皮肉ったりしたが、両班のなかには以上のように優れた人物も多く排出したのである。
 いつの時代でもたった一人の先駆者が時代を変革るのである。
 なかんずく江戸時代の日本の風俗慣習を通信使に同行して見聞した両班の製述官、申維翰(シンユハン)の『海遊録』は貴重な文献になった。