吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

韓国旅の風景 五十三

2006年06月08日 14時33分38秒 | Weblog
韓国旅の風景 五十二

 H氏のこと
 日本の教科書に朝鮮半島への侵略を進出としたごまかしの表現で全韓国の世論が激しく日本を弾劾した頃。空港のタクシーの窓に日本人客は乗車拒否とべたべた貼り紙がしてあった。
 空港の入国審査外国人窓口も日本人観光客は普段の十分の一程度しかいない。閑散としている。私はそんな時も毎月の恒例で厳冬の二月にソウルへ飛んだ。
 心配したのはテレビで乗車拒否の現場が撮影されていたことだ。こんなのは拒否現場を撮影しただけでそうでないのも有る筈だと思ってはいた。
 案の定、貼り紙のタクシーにソウル市内まで!と言ったら、ネェネェと首をたてにしてドアを空けてくれた。運転手とほとんどスポーツ話で、近ずく八八オリンピックで金メダルを韓国が幾つ取るかが話題だった。
 お世辞ぬきで、韓国得意の洋弓だけでも金(クン)メダルが男女で六ケ、柔道も半々、どちらにしても韓国が圧倒的で若い運ちゃんは、日本人乗車拒否なんかわれ関せずで、上機嫌でソウルまで飛ばしてくれた。おりる時のチップを普段の倍もはずんだら、大きな声でカムサムニダー!と頭を下げた。
 さてH氏は日本通である。年に一度は日本へ旅行にやってくる。最初、新幹線で隣り合わせた年配男性に…どちらから?と訊かれ…カンゴクからと答えるとそのまま黙りこんでしまった。H氏はしまったと思った。これは韓国人ならだれでもそう発音する。
 以来、日本旅行する度に同じ質問をされると、ソウルから…と答えることにした。
 さてH氏は戦前の日本で朝鮮人差別は数えきれぬほど体験したが日本は好きである。
 三越、大丸、伊勢丹、松坂屋などの個展にS、大学教授の作品が出る度に訪日し、ついでに各地の温泉を楽しむのであるが、私は彼を東北の温泉地に案内する度に最初は困った。 彼は堂々と温泉の流し場で放尿するばかりか、ゆでだこのような赤い顔で湯船ちかくで生まれたままの姿で数十分も寝そべるのである。
 韓国の男性は市内の温泉マーク(日本のサウナ付の銭湯にあたる)に入ると誰もが日本人のようにタオルで恥部を隠さない。
 しかし、知らない日本人の視線がきびしいので日本のマナーを教えてからはその心配は消えた。
 彼は知日家だが親日家ではない。それはそれとわきまえてどちらかと言えば、教科書や侵略問題は政治家の問題だからわれわれには関係ない話だと、韓国の人が耳にしたら青筋たてて怒るにちがいないことをけろっとした顔で言う。

韓国旅の風景 五十二

2006年06月08日 12時41分49秒 | Weblog
韓国旅の風景 五十二

 H氏のこと
 コーヒーの出前の話である。                           南大門市場のもとの三越、今は新世界百貨店(シンセーゲペッフアジョン)を挟んだ道路に五階建てのビルがある。
 各階ともそれぞれ焼き物関係の事務所や、法律事務所や同門姓氏会の事務所が入っている。
 H氏の事務所もそのビルの三階にあり、銀行の支店長を退職したH氏は韓国でもトップクラスの陶芸家、S先生(弘益大学陶芸大学教授)の養父で、長男は韓国で初めてチョモランマ登頂に成功し(一九七〇年)て父の事務所の一角に韓国山岳会の連絡事務所をおいている。
 H氏の事務所は普段、退職者逹の溜まり場になっていた。
 呑気な性分のH氏はそんな連中相手に私が入って行くと、たいがい花札をやっていて、私が挨拶言葉を発するとメンバーは慌てて、札を終い込んで部屋を出て行く。
 韓国では花札は雑貨屋で売っている。勿論、模様、絵は日本と全く同じで戦時中に日本から持ち込んだその室内遊びの習慣がそのままのこったのである。
 部屋が静かになると、コーヒーを彼は近くの茶房に電話注文する。
 どこでもそうだが韓国ではコーヒーの出前は習慣になっている。
 白布をかけた盆にカップやクリープ、砂糖を乗せて、部屋に入ると、ポットの湯を注いで客のテーブルの上に置く。
 面白いのはそれからである。ウエイトレスはテーブル脇に突っ立ったまま、客がコーヒーをのみ干すまで待っているから、どうも慣れるまでは落ち着かない。
 ここが分らないのだが、H氏は必ず、ウエイトレスの手をにぎったり時には堂々とお尻に手を置いたりする。彼は戦時中、法律で有名な日本のC大学出のインテリで、終戦の年までは日本のK商社マンだったが戦後は母国に戻り、銀行マンになった。
 彼は私の顔を見てニコニコしながら憶することもなくその行為をやってのけるのだ。

韓国旅の風景 五十一

2006年06月08日 08時25分59秒 | Weblog
韓国旅の風景 五十一

 茶房(ターバン)にて
 景福宮前の広い道路の向こう側、プラタナスの濃い木陰の合間に茶房のハングル文字が見えた。
 なかに入ると、美しいチマチョゴリ姿のママが…オソォプシオ…と頭を下げた。窓は朝鮮格子の亜字窓で、その横の李朝箪笥の上に大きな白磁壺、とっしりした木のテーブルに腰掛けた若者逹は甲論乙駁の議論の真っ最中だ。
 別に茶房でなくとも天幕飲み屋でも、プルコギ屋でもどんな店でも韓国人が集まるとまるで口論、時には喧嘩してるみたいに口角泡をとばして会話している。とくに中国語にもある有気音の喉の奥から絞りだすような声をよく耳にするからまるで喧嘩調に聞こえる。 壁際に席が取れた。ママは日本人とすぐ分ったらしくその席は私だけになったがとなりでしきりに若者、といっても大学生らしい二人が議論していた。
 どうやら議論のテーマが日本、それも記紀万葉らしい。その頃、韓国では日本に追いつき追い越そうと、各大学に日本の古典研究会が盛んで、まずは日本人の原点を知ろうとはじまった。私が一人ぽつねんとコーヒーを啜っていてすぐ日本人と知った上の議論ではなく、私が席に座る時もそんな話題らしい言葉のはしはしが耳にはいった。。
 席につくと少しの間、沈黙していたが一人の品のいい若者が、
 …鶏と卵論争ではないが、国を盗んだ倭奴(ウエノム)も悪いがそれよりもっと悪い奴は国を売った両班貴族さ、国際的な視野にたってヨーロッパ諸国に訴えて倭奴の悪魔ぶりを暴けばまだなんとかなったんだ!…
 …しかしウリナラの政治家が腐っていたとしても、ウリナラを盗んだ奴はゆるせない! ざっとそんな議論をしているのだ。
 韓国の学生とは仏教系の東国大学生が教授に二人知人がいた関係で何度も飲みながら、大ざっぱな話をそれまでにしていた。
 およそであるが、九十パーセントは秀吉の侵略と明治の韓日併合についての日本の侵略泥棒ぶりを糾弾している。残りの一部はウリナラの為政者が愚かだったことを反省していた。
 しかし、戦時中に成人していた大人の一部には日本に併合されて朝鮮が大きく近代化したのを認めるいわば、親日家もいる。
 戦前に日本の専門学校以上に留学した人々逹は一応、マルクスを学んで進歩的になって、南北分断にさいして共産主義に賛同して多くの知識人は北へ移住したのである。
 隣の学生はさすが私が耳をすまして韓国語の論争を聞いていると見たのか、次第に声をひそめて話題を国内問題に変えてしまった。