吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウライ男の随想 二十一

2005年10月31日 09時17分11秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十一  
 
 その頃、私と違って下宿する農家はなくO君は学校近くの三谷五兵衛の離れ座敷を借りて自炊することになった。
 私は器用なので釜炊きも、みそ汁造りもこなせるが、O君は自炊経験がないので、飯炊き係を長森俊助、おかず造りを女子生徒の交替制でやらせ、そのための予算として十五円をあてていた。私の下宿料は十五円で、給料の残り三十円はそっくり校長に預けていた。 食事の心配もなく、本は学校職員室に全集類があり、衣類もとくべつに下着類をのぞいて不必要なので金はたまる一方だ。
 O君は父親の県庁の技師長してる京城帝国大学出身の秀才の血と、その妾だった神戸の女学院出の才女の両方の長所が流れる文武の秀才だった。
 私は一度、高知、万々の彼の母の家を訪ねたことがあり、気品のある静かな女性で皿鉢の豪華なご馳走をうけた。
 私は時々、彼の部屋を訪ねて雑論に興じた。
 彼の進路はほほ決まっていて、やはり神戸商大予科を受験することになっていたが、二.二六のいわゆる皇道派青年将校の決起事件の影響もあって、右翼の研究もひそかにやっていた。
 私の伯父が中野正剛に傾注していてその話に興味をしめしたりした。
 彼の父が京城帝国大学を出たのは祖父が朝鮮総督府の高級官僚で京城生れの京城育ちのせいである
 私は彼の語りから朝鮮は陶磁器が日本の大先進技術国となっているばかりか江戸時代までは文化の影響を多くうけていた話に興味がわいた。もともと美術に関心がたかかった私にとって彼の朝鮮文化についての話は夢をみるような話だった。
 彼の厨房道具のひとつに高麗の青磁茶器セットがあった。
 母が行李にしのばせてくれたと言う。
 私は生まれて始めて高麗美術道具に接したのであった。

最新の画像もっと見る