吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

昭和の小樽 十七

2005年10月17日 08時57分18秒 | Weblog
昭和の小樽 十七

 冬の量徳小学校の廊下は室内遊びの楽しい世界である。くる日もくる日も吹雪きで街は真っ白い雪の底に沈んでいる。
 子供逹が真っ赤な顔だけのぞかせて登校してくる。
 十五分間の授業の合間の休み時間は廊下に出て室内遊びの喧騒がはじまる。生徒逹は五、六人に一人の割合でそれぞれ竹の遊び道具を持参してくる。長さ二十五センチ、幅が二センチ、厚さは三ミリほどの表裏をヤスリでなめらかにした竹、四本で七種類の手さばきで替え歌をうたいながら片手で器用に四本の竹をひっくりかえしたり横にはらったりするのである。一本でもそろわずはずれるとアウトとなる。
 替え歌が面白い。
 ひとめ、ふため、みやこし、よめご…いつや、のむこさん、ななや、のやくし、きせるではたいたスコン!をくりかえすのである。 ひとめは一、ふためは二、みやこしは三、よめごは四、いつやは五、むこさんは六、ななやは七、やくしは八、きせるは九、の数え歌である。
 私のクラスは三組で男子は一から三までで四、五は女子組であった。各クラスは五十人から六十人で構成されていたから一学年に三百人もの生徒数で全校生徒数は千八百数十名もいた。
 六年生の教室は二階で、廊下の窓側にオーバーなどの衣類棚が続いて設置されていた。
 遠くレートクリームの大看板横に潮見台シャンツェが教室から見えた。
 一組から三組までの廊下は竹遊びや、腕相撲、足相撲などの男子生徒の遊び、四組から五組は女子生徒のお手玉やおはじきやあやとり遊びでかしましい声が響き渡る。
 小使さんの鳴らす鐘の合図で順調にななやのやくしまで来て残念となるのである。

昭和の小樽 十六

2005年10月17日 03時00分37秒 | Weblog
昭和の小樽 十六

 小樽はスキージャンプのメッカである。
 十一月に入ると初雪が舞い、十二月には根雪となって坂の多い市内道路の凍結が始まり、厚さ一米近い凍結道路が出現する。道を走る乗合自動車がチエーンの音を残して吹雪の彼方にきえてゆく。街の至る所に長さ一米ほどの橇が道を行き交い、子供用の橇もまけじとばかり坂道を下ってゆく。衝突事故なぞ滅多に起きない。小樽っ子は足ブレーキを器用にかけて衝突を避けるし、バス以外の自動車は十数分に一台くらいしか走らない。あらゆる運搬作業は馬橇まかせだった。テカテカに凍った道路に馬糞が散乱するがたちまち凍って道路をよごさないのである。子供逹のたのしみは鈴をしゃんしゃん鳴らして走る馬橇の後にこっそり乗ってどこまでゆけるか競争することだった。馬方には勘のいい男がいて後に飛び乗った瞬間、こらっ!と雷を落とすが人のいい子供好きな馬方は知って知らぬふりをして、二百米ほど走って後をふりむくのである。
 慣れてくると人のよさそうな馬方を選ぶ眼もこえてくるのである。 第一大通の量徳寺の坂道をスケートで入船川岸までくだるのが子供逹のならいであった。金属製のスケートを買えない子供の大半は手製の長さ四十センチほどの竹スケートで滑りおりるのだった。
 さてジャンプ台だが大きいのは潮見台シャンツェ、小樽高商の木造アプローチのシャンツェ、小樽中学校庭横のシャンツェ、小樽公園のアプローチが木造のシャンツェ、そのほか住吉神社北側の崖に作ったちいさなシャンツェなど潮見台から順に飛距離が六十米から、四十米、三十米、二十米などのほか、各スキー場にはスコップで積み上げた高さ一米ほどの小さなジャンプ台がいたるところにあった。 私は着地の衝撃にまけて、満足に飛んだ記憶はない。
 当時、安逹五郎、伊黒正次、浅木文男など七十米も飛ぶドイツ、ガルミッシュのオリンピック参加の名選手も小樽から出たのである。 その頃の選手逹は空中で両手をぐるぐる回して飛んだのだった。