吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

昭和の小樽 十九

2005年10月18日 17時11分01秒 | Weblog
昭和の小樽 十九

 昭和九年四月、南小樽駅で降りて、父の経営するミシン工場についた夜。玄関わきの石炭庫の戸口に金太郎が使った(?)と同じマサカリが立掛けてあった。
「北海道のカボチャは堅うて包丁で切れんのでこれで切るがャ」 と富山出身の父が言った。子供心に初めて受けたカルチャショックである。その夕方、港のほうからしきりに汽船の吠える音が腹のそこに響いてきて、遠い外国へやってきた錯覚を覚えた。
 最初の友達は入船町一町目に住むN君という船舶具問屋の息子で相撲がクラスで一番強い子で、船のトン数をあてる名人だった。
 私は放課後、よくN君と一緒に岸壁へ遊びに行った。
 その頃、小樽港に入出港する船舶数は外国船が一日一隻、国内汽船は平均一日に十数隻もあり、水先案内のポンポン蒸気船が港湾内の汽船の合間を波をけたててはしっている。波止場は工事の真っ最中だった。岸壁に汽船は横付けになって荷下ろしを行って、沖で停泊の汽船はクレーンを使ってダルマ船に荷を下ろしたり沖仲士逹が南京袋を肩にしなる板に拍子をあわせて荷役作業をしていた。
「あの白いギリシャ船は七千トン、その手前は北日本船舶の貨物船 で二千五百トンだべ…そこの岸壁に停泊の貨物船は炭鉱汽船の石 炭船で三千トンだわ…」
 とまるで船長みたいなことをNくんは言った。
 彼は中学から高等商船学校へ進学して将来、外国航路の機関長になる希望をもつ少年だった。
 私は絵が得意だったので小学生絵画展に入選したこともあるが将来なんて考えたこともない。
 父は晩酌で酔うとよく上野さ入れ!とくどく言うのだ。上野とは上野美術学校のことで家が倒産してT県のT中学三年で退学した父が入りたかった学校だった。
 腹の底まで響いてくる汽船の警笛を聞くとなぜか私は感動した。

昭和の小樽 十八

2005年10月18日 13時26分19秒 | Weblog
昭和の小樽 十八

 四月になると入船川の柳の芽が日に日に成長し、道路に雪解け水が小川のように流れ、陽光も眩しく、半年もの間、雪にとざされた街々に春の息吹がよみがえる。
 そんな季節は小樽に取って災いの季節でもあった。
 小火はしょっちゅう起きた。
 花園消防署の秋田名犬が火災がおきると素早く消防車に乗り、火災現場で野次馬の整理に吠えまくる話は前にふれたとおりである。 何故小樽に大火災が多いのか…その時期も明治以来、大火はすべて四月、五月、六月にかぎられている。
 その季節は雪解けの季節でもあり、半年間使ったストーブはまだ朝晩石炭の炎は絶やさない。消防車は泥まみれの雪解け道を走ることになる。
 もうすぐストーブもご用納めとなる頃は煙突掃除もとどこりやすく燃えた油煙が飛び散って火災の原因になるのだ。
 どこかで消防車のサイレンが鳴ると、父は…またか!と言って明治以来の大火を教えてくれた。
 明治十八年に三百四十八戸、二十年に四百戸、二十七年に手宮で七百戸…この時の小樽の人口が約、二万八千人だから全市の三分の二以上が灰になったことになる。いずれも季節は五月と六月だった。 その後、明治四十二年まで、二年から五年おきに七百数十戸の火災、特に明治三十七年の日清戦争の年には二千四百三十四戸の大火災に見舞われている。
 季節が四、五、六月に集中するのはこの季節、北西の強風が坂の多い背後の市街地をひとなめするからである。
 私が小学生の頃(昭和七年~十一年)は消防車のサイレンを月に何度も聞いたが今は救急車と警察のサイレンが日常的である。
 当時の小樽市民のだれしもが朝晩、入出港する汽船の警笛を聞いて暮らし、火災のサイレンは耳慣れた音でもあった。