吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

小樽十四

2005年10月15日 15時53分01秒 | 昭和の小樽
昭和の小樽 十四

 私の家庭の正月は暮れの二十七、八日から始まる。
 その頃になると予約していた各家庭持ち回りの餅つき業者がやってくるのである。
 遠く、積丹(シャコタン)あたりからの餅つき人足逹が蒸籠から次から次へと大臼にもうもうと湯気のたつ蒸米を投げ出すようにいれると拍子を取ってダッ!ダッ!と蒸米を搗きだす。外は勿論、根雪で吹雪くこともあるが赤々と燃える薪の火を見ると子供心に身震いするほど楽しかった。
 ミシン工場を経営するわが家では毎年、一俵から一俵半の糯米を搗く。部屋中いっぱい搗きたての板餅が数十枚も新聞紙の上に重ねられ、供餅の大小も数十ケ、女工員逹の手伝いで用意される。
 土佐出身の母は毎年、暮れになると二十人用の大釜いっぱい煮物を作って正月の準備をする。
 私はこの煮物、とくにコンニャクと里芋が大好物でそれは七十年もたった今も続いている。
 当時の小樽はスズコ、イクラ、カズノコ、の正月用、三種の神器の洪水でどの市場にも安い値段であふれていた。
 わが家では輪島塗りの重箱が用意され、それにカズノコ、イクラ、光りものの酢漬、煮物などが四重箱、三組にずっしりならんでいる。 雑煮は土佐流に鶏ガラダシに鶏肉、四角い餅を軽く焼いたものにセリなどが入っていた。
 箸袋には博、十才と数え年が拙い母の字で書いて卓においてある。 父の発声で一斉に…新年、おめでとうございます…と斉唱して箸をとるのだった。
 母は土佐人らしく酒につよく、ほろ酔い調子で…土佐の高知の播磨屋橋に…とヨサコイ節を歌い、父は下手な浪曲をうなりだす。
 私逹は麻布を広い十畳間に敷き詰め、百人首のカルタとり会を初めるのだ。その頃。読み札は紙製だがとり札はすべて厚さ五ミリほどのホウの木製で、草書の太字で書かれたしもの句を夢中で覚えたものだ。乙女の姿しばし…とか三笠の山にいでし…とかはすぐおぼえてマークしたり両側に六七人づつ対面してきそうのである。
 玄関には布をかけた机の上に三方を供え、挨拶にきた客のほとんどは名刺を三方に乗せて新年の挨拶とするのである。

手前考

2005年10月15日 15時48分37秒 | 軽いエッセイ
点前考

 お茶を点てると言う。これはどの流派でもお点前と呼ぶが、何故点前と書くのか色々な茶の先生方に訊ねても納得する答えがえられない。手前が茶を点ずるからおてまえと言うのかしら…そんな答えもあった。
 茶の湯では最も大切な礼式のお点前にどうして点の文字を使うのか長い間、私の疑問であったが誰も答えてくれない。
 私の尊敬する作家の一人に陳舜臣がいる。そして私にとって思い出の多い神戸生まれの台湾出身であり、司馬遼太郎とともにその著作、とくに随筆はほとんど読ませていただいた。
 さて、点の話しである。
 陳舜臣の『三燈随筆』の『点の話』にノーベル賞受賞者の中国人、リー博士の…二十世紀はミクロとマクロが結合した時代…について「点と無限」は私逹を感動させるとし、その点について次の引例を書いていた。
 点を省略しないで書くと「點」であり、そこに黒と言う字が当てはめている。まわりより黒くなければ点は見えない。点とは小黒とある。この小は相対的な意味で素粒子のようなものもあれば宇宙の一点のように大きいものもある。
 杜甫の『曲江詩』に…点水する蜻蜒(セイテイ=とんぼ)は款々として飛ぶ…とあり、これはトンボが池水をぱたぱた叩く様は心なごむ風景としている。
 なるほど、これだと私は思った。茶筅で茶碗にいれた抹茶と湯をかき回す様はまさに蜻蜒の款々とした様子…それが点水のさまになる…だから点ずるとしたのであろう。
 茶の湯の『点心=ティエンシン』は、中国南朝の若き名君で…都が凶作で穀物の値段があがったので…常饌を改めて小食にした。それが点心のはじまりとあった。