吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウライ男の随想 十八

2005年10月30日 12時32分33秒 | Weblog
カウライ男の随想 十八   
 
 O君は四年生の二学期終了で海軍兵学校を受験し、三日間の試験も突破、制服の寸法とりもしたが、身上調査で落ちた。
 当時は陸士、海兵は全国軍人志望の中学生逹の志望校で、とりわけ海兵はその将校制服と腰に吊す短剣姿が青少年の魅力だった。
 陸士は三日間の試験を受験者全員が受けることが出来たが、海兵はその日ごとに採点して合格点に達しない場合は翌日の試験は受けられない制度である。
 O君は学科が合格したので九十%採用である。ところが不合格になった。…貴君は成績抜群だが私生子なので…その才能は陸士で…と担当少佐に告げられたと言う。
 もし彼が海兵に合格しておればその期の戦死確率は高いので私とは永遠に縁がなかったのに運命は不思議なもので戦後彼は東大法学部在学中に司法試験を突破し、のち高松検事局の検事正部長を経て推薦による参議院選挙で僅差で落選、弁護士として活躍、東南アジア国際弁護士会長、日本弁護士会副会長の要職ののち、昨年、癌を患って七十九才の人生を終えた。
 彼は豪快な男で母校の中学で三階建ての屋上の手摺の上で逆立ちをして全校生徒の度肝をぬいたことがある。
 私と彼が担当した教え子もかわった所があって、そのクラスの同窓会は戦後、十七回も実施、戦死一名のほか病死が九名、病気中五名、老化で外出不能が六名のほか十八名は今年も十一月に西峰に集まることになっているが変わった教え子と言う理由は、高等科卒業まで習った先生は九名もいるのに同窓会によばれるのは私とO君だけだからだ。O君は秀才で日本の司法界で著名な人物になったが私は無名の野人…なぜそうなったのか…要するに私は彼等に肉親の兄以上にせっしたのが理由らしい。
 さて彼の授業は異色だった。
 クラスソングも奇抜だった。

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