吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウライ男の随想 十四

2005年10月28日 17時02分25秒 | Weblog
カウライ男の随想 十四
 
 その夜。天下の美味の饗宴がイネさんの囲炉裏で開かれた。
 アマゴはアメゴとも呼ばれる淡水魚で鮭の一種であり、成長すると三十センチほどの大きさになり、体側に赤い小判模様の斑点があり、その味は魔味と言ってよい。四国、九州の川の上流、水温のひくい清流にすむ魚である。
 土地っ子は潜って鉄砲槍でさして獲るが利口な魚で岩塊のえぐられた奥にじっと身を隠している。
 菊之助は手際よく、とっておきのドブを持参していた。
 囲炉裏の煙で眼を細くしながら塩をふった串刺しのアマゴの香ばしい薫りが部屋に充満している。
…たかで今夜はでっしら獲れよった!先生も若いけんど猿じゃのう!…学校の職員室にあった縄文の郷土読本の昔も渓流で獲ったんかのう?…そうはゆくまい、だいいち、投網はなかっつろう…。
 私はアマゴ三匹とドブを茶碗で五杯も飲んだ。
…先生には負けたぞね…菊之助は籠にアマゴを十数匹いれたのを腰に席を立った。
 その頃、一般の農家では日に四度も食事をした。・
 早い朝の食事をすませて四時間もすると小茶となり、二番茶は午後二時頃すませ…そして夜の食事となる。茶は食事を意味する言葉で…もう茶はすんだかのうし…はもう食事は終わったのかい…となる。食事が多いのはすき腹の要求もあるが茶の時間は激しい労働から休める唯一の休息になるのだ。
 食事はひきわり麦飯を、囲炉裏に串刺しのふかしカライモ(サツマ芋)を二本ほど口にしてからたべるのは昔からのならわしだった。 どの農家にも芋蔵が家屋のわきに掘ってあり、筵のしたに収穫したカライモが眠って出番を待って居る。
 副食は季節ごとにとれたぜんまい、タケノコ、蕨、じゃがいもの煮付け、手製のコンニャクや豆腐は祭りの日に用意され、ほとんどが人参、牛蒡のみそ漬けをおかずにする。

カウライ男の随想 十三

2005年10月28日 14時56分40秒 | Weblog
カウライ男の随想 十三
 
 ある日の夕方、教え子の三谷清馬が…先生!今夜棒高飛びじゃ…と言って肩で息しながら知らせに来た。
…なんじゃ!急に棒高飛びって…お父が先生の都合聞いてこいと言うたけん…なるほど私は了解した。いつか校庭の砂場で手作りの竹竿で二米七十センチのバーを越えたことがあり…先生は棒高飛びをしちょったけん…と感心した顔の生徒逹に言ったことをおもいだした。…お父も渓流を鳥のように飛ぶけん…と言ったのが清馬である。 西峰では珍しい馬が清馬の家に飼われていた。兄の俊馬は名のとおり裸馬をあやつる名手である。一度、話に乗せられて裸馬に乗ったことがあり、その時はまさに命からがらだった。乗った途端に俊馬が尻をたたいたのでいきなり馬が駆け出したのだ。村道の曲がり道は土手ぎりぎりに曲がって走るので私は突き出た樹の枝を避けて必死になってくらいついた。
 馬は農耕馬ではない。正式の競争馬だった。手綱をいくらひっぱっても言うことをきかない馬は沖の入り口で止まるとそのまま大畑井に引き返してくれた。私はそのおどおどした態度を馬に見破られすっかりなめられてしまったのだ。
 間もなく、父親の三谷菊之助が長い竹竿二本抱えてやってきた。 ガンさんが今夜は奥の渕かヨ!わしはよう飛べんぞね…と菊之助を見て言った。
 満月の光で轟々と音を奏でる渓谷の大きな岩が奥の渕に向かって威圧するような奇岩が見える。
…先生!わしの後についてきとうせ!落ちたら泳いだらええけん…。 と菊之助は竹竿を渓流に固定させると猿のように向こう岩へ飛んだ。私もそのとおり飛びついた。
 岩の上に三坪ほどのひらたい所があった。菊之助は肩から投網を下ろし、拍子をとって高さ二米ほどしたの渕に投げ入れた。
 引き上げた網に十数匹のアマゴが月光に銀鱗を躍らせている。

カウライ男の随想 十二

2005年10月28日 14時12分03秒 | Weblog
カウライ男の随想 十二
 
 夏休みも田畑は忙しい季節で老若男女それなりに手ぬぐい鉢巻きをして汗まみれに働いた。学校の校庭で遊ぶのは低学年生徒の数人で普段は賑やかな子供逹の声もなく蝉の鳴く声だけいんいんと森から聞こえてくる。
 職員も私をのぞいて全員休暇を取ってそれぞれの郷里へ帰っている。
 私は早朝の草刈りをすませて朝飯を終えると腰に篭をさげて田圃の草取りにむかう。イネさんは手ぬぐいを姉さんかぶりにし、筒袖の単衣を裾まくりして慣れた足取りで田圃にはいる。       渓谷をはさんだ蔭の二反ほどの棚田である。足を入れた途端に蛭がぴったり吸い付いてくる。ひっぱっても身体を延ばし、口はふくらはぎに吸い付いたままだ。面倒なので全体をつかんでひねりつぶした。
 畔で一休みしてると教え子の国香がいつのまにかお茶をいれにやってきた。どきっとした。彼女は青年学校にかよう、大畑井一の美少女で年は十六才、イネさんの姪になる。
 黒い前髪のしたのやや細い眼は平家貴族をしのばせる美しい睫とうぶな魅力に輝いている。私が赴任した年に高等科を終えていた。 朝礼の時、高等科の横にならぶ十数人の青年学校生徒の視線を私はまぶしく受ける事がある。
 ほとんど私とおなじ年の娘逹である。
 草いきれの畔道にすわりこんでモッソウを開いてシラウオと牛蒡のみそ漬けをおかずに昼をとる。
 遠くの棚田で数人が手をふっているのでよく見ると土居の千代喜だ。彼は長男で弱い父親に変わっていっぱしの大人の働きをしている。
 二人の弟はきっと栃沢の奥へ秋肥を刈りにいってるのだろう。
 六年生でも身体をくの字にまげて小山のような刈り草を背にする。

カウライ男の随想 十

2005年10月28日 08時15分13秒 | Weblog
カウライ男の随想 十
 
 今日は天長節の祝日なので、イネさんにたのんで早朝から五右衛門風呂を沸かして貰った。西峰では古くからどの家でもこの風呂が厠の横にかまえてある。
 板囲いの小屋に径が八十センチ、深さは六十センチほどの五右衛門釜がどっしりと直接竃の上に据え付けてある。
 その名のとおり石川五右衛門が釜茹の刑に処せられた釜にちなんで名付けた。五右衛門は安土桃山時代の伝説に登場した盗賊で文禄年間に親子で釜茹での刑を受けたという。
 釜のそこは炎に接しているのでそのまま入ると足が火傷する。
 風呂にはそこの直径ほどの丸い板が浮いていてそれを踏みながら湯に身体を沈めるのだ。
 私はその日、朝日が格子戸の隙間からさしこむ湯につかりながら、ふと五右衛門はしだいに熱湯になる過程でまさに地獄の釜茹での苦しみを味わったまま絶命したのだろう…と妙に同情したのだ。
 …今日の佳き日は大君の生れ給いし…とオルガンにあわせて合唱する声がはるかに望む渓谷にきえてゆく。
 生徒達には何故か鼻たらしが多く、高学年にも数人はいた。
 校長が勅語を読むとよけいに鼻すすりが始まる。不謹慎ながら笑い上戸の私は死ぬ思いで笑いを堪える。
 ふだんからおどけ名人の千代喜は隣の生徒の手をとってなにやら悪戯を始める。肩をゆすって笑いだす信男、とにかく厳粛な時間は一触即発、笑い爆弾が炸裂する危機にあるのだ。
 笑い上戸の私を知っている四郎は朝礼の時間にあわせて兄にたのんで、校庭が見える坂道でわざと牛をとめ、鞭でモー!と鳴かせるのだ。
 私が丑年を知っていて笑い地獄におとしいれるべくそうしたのだ。 勿論、私はふきだすのを堪えきれず、用事を思い出すふりをして裏の泉まで逃げ出した。