吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウライ男の随想 十二

2005年10月28日 14時12分03秒 | Weblog
カウライ男の随想 十二
 
 夏休みも田畑は忙しい季節で老若男女それなりに手ぬぐい鉢巻きをして汗まみれに働いた。学校の校庭で遊ぶのは低学年生徒の数人で普段は賑やかな子供逹の声もなく蝉の鳴く声だけいんいんと森から聞こえてくる。
 職員も私をのぞいて全員休暇を取ってそれぞれの郷里へ帰っている。
 私は早朝の草刈りをすませて朝飯を終えると腰に篭をさげて田圃の草取りにむかう。イネさんは手ぬぐいを姉さんかぶりにし、筒袖の単衣を裾まくりして慣れた足取りで田圃にはいる。       渓谷をはさんだ蔭の二反ほどの棚田である。足を入れた途端に蛭がぴったり吸い付いてくる。ひっぱっても身体を延ばし、口はふくらはぎに吸い付いたままだ。面倒なので全体をつかんでひねりつぶした。
 畔で一休みしてると教え子の国香がいつのまにかお茶をいれにやってきた。どきっとした。彼女は青年学校にかよう、大畑井一の美少女で年は十六才、イネさんの姪になる。
 黒い前髪のしたのやや細い眼は平家貴族をしのばせる美しい睫とうぶな魅力に輝いている。私が赴任した年に高等科を終えていた。 朝礼の時、高等科の横にならぶ十数人の青年学校生徒の視線を私はまぶしく受ける事がある。
 ほとんど私とおなじ年の娘逹である。
 草いきれの畔道にすわりこんでモッソウを開いてシラウオと牛蒡のみそ漬けをおかずに昼をとる。
 遠くの棚田で数人が手をふっているのでよく見ると土居の千代喜だ。彼は長男で弱い父親に変わっていっぱしの大人の働きをしている。
 二人の弟はきっと栃沢の奥へ秋肥を刈りにいってるのだろう。
 六年生でも身体をくの字にまげて小山のような刈り草を背にする。

カウライ男の随想 十

2005年10月28日 08時15分13秒 | Weblog
カウライ男の随想 十
 
 今日は天長節の祝日なので、イネさんにたのんで早朝から五右衛門風呂を沸かして貰った。西峰では古くからどの家でもこの風呂が厠の横にかまえてある。
 板囲いの小屋に径が八十センチ、深さは六十センチほどの五右衛門釜がどっしりと直接竃の上に据え付けてある。
 その名のとおり石川五右衛門が釜茹の刑に処せられた釜にちなんで名付けた。五右衛門は安土桃山時代の伝説に登場した盗賊で文禄年間に親子で釜茹での刑を受けたという。
 釜のそこは炎に接しているのでそのまま入ると足が火傷する。
 風呂にはそこの直径ほどの丸い板が浮いていてそれを踏みながら湯に身体を沈めるのだ。
 私はその日、朝日が格子戸の隙間からさしこむ湯につかりながら、ふと五右衛門はしだいに熱湯になる過程でまさに地獄の釜茹での苦しみを味わったまま絶命したのだろう…と妙に同情したのだ。
 …今日の佳き日は大君の生れ給いし…とオルガンにあわせて合唱する声がはるかに望む渓谷にきえてゆく。
 生徒達には何故か鼻たらしが多く、高学年にも数人はいた。
 校長が勅語を読むとよけいに鼻すすりが始まる。不謹慎ながら笑い上戸の私は死ぬ思いで笑いを堪える。
 ふだんからおどけ名人の千代喜は隣の生徒の手をとってなにやら悪戯を始める。肩をゆすって笑いだす信男、とにかく厳粛な時間は一触即発、笑い爆弾が炸裂する危機にあるのだ。
 笑い上戸の私を知っている四郎は朝礼の時間にあわせて兄にたのんで、校庭が見える坂道でわざと牛をとめ、鞭でモー!と鳴かせるのだ。
 私が丑年を知っていて笑い地獄におとしいれるべくそうしたのだ。 勿論、私はふきだすのを堪えきれず、用事を思い出すふりをして裏の泉まで逃げ出した。

カウライ男の随想 十

2005年10月27日 17時21分54秒 | Weblog
カウライ男の随想 十
 
 戦時体制の国民学校。高等科になると体育も軍事訓練の真似事になり、朝礼には南方戦線の輝かしい戦果が校長によって報告された。 のんべぇで人のいい西森校長は予備役の陸軍少尉で招集され、関東軍要員として満州に派遣された。代りのO校長は典型的な出世を願う師範出だった。何とか高知市の学校長として視学に認めて貰い栄転をねらってる男だった。赴任以来毎週、土曜日になると自転車に乗って三里の山道をくだり豊永駅から高知へ帰ってゆく。そんな校長の姿は村道脇の畑や水田からよくみえるので…O校長はまた寝押しに去によったぞね…と村人同志でささやきあうのだ。寝押しとはズボンやスカートの折り目をつけるために布団の下に敷いて寝押しすることだが、村人の言う寝押しはべつの嫌らしい意味がある。 経理を手伝ってる師範出のM女先生の話だと、個人での帰高も決まった出張費と旅費を得ていると言う。
 わたしは生徒逹に月夜はおそくまで草刈り仕事をした…とか、朝早くから、水田の草取りしたとかはったりを言って生徒を指導する校長の話を全く無視していた。
 飾らない西森校長時代をしのびながら、高等科一年生が二年生になったのでK教頭にバトンタッチし、今度は初等科六年の担任となった。
 体育の時間は決まって長瀬川原に降りて野外授業を試みた。カリキュラムにない授業だが教え子逹には礼儀を徹底し、朝礼の態度は六年生が一番なので校長からの苦情はでなかった。
 六年生ともなれば家に戻るとすぐ田畑の手伝仕事がまっているので子供逹は課外授業となる喜色満面で川原へ飛んでゆく。
 しかしたんに遊ぶことはしない。
 川原の十二所神社の祭神はだれとだれとだれか?とか平家落人の有様はどうだったかとか阿波の百姓一揆で西峰では多勢の農民を受け入れたいきさつなどはどうだったかの勉強もしたのだった。

カウライ男の随想 九

2005年10月27日 14時46分43秒 | Weblog
カウライ男の随想 九

 西峰には時々火玉が飛ぶという話をガンさんがする。
 火玉と人魂とちがうんやろ!私は訊ねた。
…たかで大違いよ!火玉はしょう早いぞ!…ガンさんは真顔で言った。
…見たかよ…でっしら見ちゅうぞね…平家の亡霊じゃろうか…そんがなこと知らんぜや…知らんのになんで見ちゅうぞ!西峰の火玉は火事のもとじゃけんのう、イネさんよ!…。
 西峰では火玉が飛んでも屋根に落ちなければなんちゅうこともない…で通っている。
 それでは火玉に熱でもあるかよ!科学的にりくつがあわん!。
 私は火玉の存在を信じない。
 けたばんし(山の上の州)の言い寄るがァじゃけん、理屈じゃ!イネが答えた。
 けたばんしは土居、野々屋、沖である。そこから河野、大畑井戸、蔭はしたに見える。すると火玉はしたから上には飛ばんのかい?…しよぅ軽いけにのう…。
 さっぱり分からぬ問答だ。ともあれ今夜はまだこんまいアマゴがドブのおかずだった。囲炉裏に串刺しのアマゴが十数匹もならんで反り返っている。ガンさんが投網したのだ。
…投網じゃろ?…そうよ、猪岩から渕に五回もうてばぎょうさん取れるぞ!と言うガンさんの額はてかてかだ。
…先生!茶たべるかね?…イネが言った。茶たべるとは御飯をたべるこの地の方言だ。
…わしもめっそう話しよってもいくまい、いぬるとしようか…ガンさんがのっそり立ち上がって草履をつっ掛けた。
 その時、生徒の声がしてツボ(庭)に眼をやると今夜は柚ノ木の平石俊夫と八木幸男の二人が月夜なので提灯なしにドブぶら下げてやってきた。

カウライ男の随想 八

2005年10月27日 09時18分14秒 | Weblog
カウライ男の随想 八

 昭和十七年四月十八日、米軍爆撃機十六機編隊が東京、名古屋、神戸を空襲した当日、高知県の敵機空襲警報発令連絡はまちがいなく全県にたっしたが、当時の狼狽ぶりが伺えるあわてぶりと言うのは人口わずかの四国山脈の真っ直中の西峰を敵機が空襲するはずもない。
 その頃『武士道とは死ぬこととみつけたり』の軍指導の標語が全国の若者に浸透して、われもわれもと軍学校に志願する者もふえつつあった。こういう官製標語はまたたくまに広がって若者逹がお国の為に命をささげるムードはだれしもが大なり小なり抱いていた。 私が国民学校の教師をえらんだのは啄木の本の影響もあったが、『死』の哲学をもっと知ってみたい、そしていずれ、訪れるその時の心の準備を…そんな理由だった。
 たまさか職員室の本棚に世界思想全集があり、哲学者、西田幾太郎の…『絶対矛盾的自己同一』を口走ることが若き真理探求者の金科玉条として流行した時代でもあり、私はともかく全集を片端から読破した。
 結果、関心をもったのはソークラテスの夢を見ぬ夜の永遠の続き…が死であるのと『思推する我』を疑うべからざる存在とした…二元論のデカルトの『方法叙説』だったが勿論十七才のあだ名がニキビ少年の私の小さな自己満足にすぎなかった。
 しかしそんな暮らしにあって私に一番おおきな影響を与えたのは宮沢賢治の本である。幸い同僚で私より四つ先輩のK女教師が彼の作品の大半をもっていたので借りて、子供逹に朗読して聞かせた。 その頃、J中学出身の友人の先輩の海兵出身の海軍少佐が南方から軍務で帰還、日本海軍が南方海域で全滅との悲報を聞かされていた。
 新聞の報道にも台湾、朝鮮の徴兵制度実施など戦況は不安じょうたいなっていた。
 それでも私のドブロク教師生活は続いていた。

カウライ男の随想 七

2005年10月27日 08時26分01秒 | Weblog
カウライ男の随想 七

 試験問題の採点と学期末の書類つくりで遅く下宿へ戻ると囲炉裏からの肉汁の香りが外にまで漂っていた。
 赤ら顔のガンさんが仁王様のような顔で…仰山!猪鍋できちゅうぞね!と私の顔をみるなり言った。
 峠の向こうの雑木林の斜面で一発よ!…また猿公に教えて貰うたんか!…なぁにこんどりゃわしの勘よ!と胸そらしてにこにこ顔だった。
…先生もどうぞ!食わっしやれ!…ガンさんがドブ酒を傾けた。
…フロノウの影晴には感謝して貰わにゃ…影晴の野菜畑は猪にやられて近在の人々に同情されていた。
…先生はなにかい!昔、番役で西峰土居の三谷から大砂子に養子に行ったと聞いちゅうが…ガンさんはますます赤くなった顔して訊いた。
…ガンさん!あの猿公はツベ(人の肛門…豊永方言)ぬきの猿公やろ!私は職員室にあった郷土民俗話の…旅人に化けたさるの荷物をひきうけて、たいそうな銭をめあてに歩きながら、ふと荷札をみると、われのツベで百ツベと書いてあったので腰をぬかさんばかりに逃げた…を訊いた。
…ハハハハさすが若いけんどそんがなことも知っちゅうかよ…とけろっとした顔して答えた。
 野兎汁はもう五、六回ほどイネさんにご馳走になったがやはり猪肉はやらかくて断然の味だ。
 私は肉と麦飯とたっぷりしみこんだみそ漬けの食生活に大満足だった。
 そんな暮らしは戦時中をわすれさすほど別世界に思えた。ニユース情報もやや遅れながら届く程度ののどかさがあったある日、突然、消防櫓から半鐘がカーンカーンと渓谷にこだました。
 すぐ学校へ飛んで行った私は河野の青年が日の丸旗を掲げて興奮しながら告げた。今の半鐘は空襲警報の合図という。

カウライ男の随想 六

2005年10月26日 16時19分32秒 | Weblog
カウライ男の随想 六

 時々雪が舞った。南国土佐で雪をみようとは思ってもみなかった。 長瀬川渓谷をはさんで東西に分かれる、蔭は日陰の時間が多く、続く柚ノ木は丘陵台地になって日当たりもよい。しかし背後の山陰は陽のさす時間はわずかで冬の間、スキー場になっている。 休日ともなれば南国スキーの面々が高知から朝の一番列車でやってきた。朝六時発の土讃線は一時間で豊永駅に到着、そこから三里の山道を徒歩で柚ノ木までやってくるのでのべ約四時間はかかるのだ。宿泊設備はないのでスキー客は日帰りとなる。
 柚ノ木からきている八木幸男の家ではそんな客のために貸しスキーを用意していた。
 小樽のようにカンダーハーもついてない革を鋲でしめる旧式だが滑走には差し支えはない。
 二、三十センチほどの雪が二度ほど降るともうスキーは可能である。
 一月と二月の休日に私はスキー場に通った。
 夜、下宿に時々猟師が訪ねてくる。男寡のガンさんだ。下宿をやってるイネさんの主人は三年前に脳溢血でたおれたままあの世へ旅だった。私と同じ年の一人の息子は新居浜の軍需工場へ、次男は満州の少年開拓団へはいっていた。
 ガンさんは話が大袈裟で彼がくると囲炉裏端からイネさんの笑い声が私の部屋まで届く。
 山の話に興味がわいて…月夜の渓谷でアマゴを釣ると、猿公(エンコウ)が現れて渕にアマゴを追い込んでくれる話をしていた。
 この猿公は猪猟にもどことなく現れて居場所を教えてくれると言うが…私はのちに職員室にあった郷土資料の民話でこの猿公の物語を知った。
 でもガンさんの猪猟の話はほんもので突進してくる牙にやられると細い立ち木はえぐられてしまうという。

コウライ男の随想 五

2005年10月26日 09時22分19秒 | Weblog
カウライ男の随想 五

 女子生徒逹はみな同じ大畑井に住む子供逹で離れてはいるが各自の家から徒歩で五、六分の距離である。月夜はべつとして夜は提灯なしでは歩けない。傾斜地の小道には崖あり、沢あり竹藪ありで転落すると大怪我をする。懐中電灯などもつ家庭はほとんどいない。「お父が先生にって!…」
 級長の芳香が差し出した徳利はドブロクの香りがした。
…今度赴任した先生は若いけんど、しょう(たいへん)酒に強いそうな…こんな噂は最初に校長と挨拶に行った大畑井の村会議員で学務委員の永森国盛の口から西峰全体にひろがるのに二日とかからなかった。
 そこで夜学にことかけてこうして集団でやってきたのだ。
 ドブロク攻勢は週に一度、男女生徒がかわるがわる夜にやってきた。
 昭和十七年には戦時統制令で主食は配給、酒類も同じで国民は食べるのにきゅうきゅうとしていた。
 高知市の市民はどの家も食料を求めて目の色変えて確保に夢中の暮らしを余儀なくされていた。農村も同じであるが主食は確保されていたので食べる心配はなかったし、酒類は違反だが密造酒にたよるほかなかった。
 土佐人気質というか、密造酒殺人事件も起きている。ある郡の間税調査に訪れた税務官が情報をもとにある農家を突然調査した所、奥座敷に大掛かりの醸造桶を発見、慌てた農民が梯子で上った税務官の梯子をひっくり返して、税務官は深さ二米ほどの醸造桶に転落死する事件が起きた。
 西峰ではそんな大掛かりの密造はなく、各自が自宅で飲む程度゛のドブロクは畑の小屋などでどの農家も作っていた。
 ただし生きた菌の変化も激しく、頃合の飲みぐあいは微妙らしい。 私は完成のドブロクを飲む立場でその苦労をしらなかった。

カウライ男の随想 四

2005年10月26日 08時32分29秒 | Weblog
カウライ男の随想 四

 私の下宿は大畑井を一望できる小さな丘の突端にあた。
 小太りで愛嬌たっぷりのキノダケと言う屋号の農婦の家である。 西峰は全戸が屋号をもっている。
 その屋号はこの地に人が住みついた遠い昔から人々の間になずけられそれぞれ意味のある屋号となった。
 縄文、弥生時代はさておいて西峰には平安時代に八木氏の勢力が徳島の祖谷地方から次第に浸透してきた。八木氏は安曇一族が西は備前、淡路、肥前から東に大和、河内から丹波、常陸、武蔵、陸奥、にいたるまで分布していった。
 受持ち生徒にも八木姓が三人いるが他の永森、笹岡、小笠原、三谷、上地、前田姓も多い。
 さて屋号であるが、ミネヤシキ、ヒウラ、下ヤシキ、オモヤシキ、西ヤシキ、堂ノシタ、カツラ谷、イノ下、ナカ屋敷、ウワナルノ東、カミノ前、トウメシノ東、ミチノ下、ナカノ道、東、チカラ石、ホコノ井、ドウノ前、アリ宮、フロノウ子、ナカ東、イタヤ、キウ子、セウケ、タニなどは教え子逹の屋号であり、村人は姓を呼ばずにオモヤシキの誰々が…と話し合う。
 子供逹は互いに名前を呼びあう。同姓が多いので例えば三谷と呼べば七、八人が返事するのだ。
 出席を取る時も名前で確認するのである。
 平家落人のせいで女の子の名前は断然優雅な香が多い。清香、恵美香、千代香、年香、千鶴香、佳香、きりがない。
 男子生徒の名前もちよっと読みにくい届けが多い。忠盛、佳盛、実盛、など盛も多いが、憲とかいてノリヨシ、博愛はノリヒロ、驀大、寛大など威勢のいい名前もある。昭和の初期の親逹の感覚からみてそんな名前が流行ったのだろう。
 さて赴任して五日目の夜、女子生徒、五人が提灯下げて下宿へ訪ねてきた。手にしたのはドブロクの入った一升徳利である。

コウライ男の随想 三

2005年10月25日 14時08分59秒 | Weblog
カウライ男の随想 三

 校長の名は西峰ならぬ西森と言う師範出らしからぬ快男児である。 受持ちは戦争にかりだされて空席だった高等科一年生で私と三才年下だから弟を教える感覚だ。
 その放課後から村内学務委員宅への新任挨拶が始まった。学区は徳島県境に近い京柱峠の沖から蔭、大畑井、河野、土居、野々屋、漉丁、柚ノ木の八字もあった。
 校長は村の名士のトップだから沖で畑仕事で山の斜面やコウゾ、ミツマタの皮剥ぎに小川で精出していた農夫逹は慌てて自宅に戻って囲炉裏に火をくべてとっておきのご馳走を用意した。
 土佐の習慣でお茶かわりの酒が用意される。
 煙でくすんだ黒光りする戸棚をあけて一升瓶に入った白いもの…それは牛乳に違いない…と思ってさすが山村は違うと喜んだ。   校長は囲炉裏端に胡座して世間話を初め、私を若いけんど新任じゃがと紹介した。…なにもないけんどどうぞ!と村人は大きな茶碗に牛乳をたっぷりそそいで勧めた。
 では…と校長は片手で茶碗を持って一気に飲み干し、なかなかええ育ちじゃのう!と感心したので牛乳にやはり育ちも必要なんだ…と勧められるまま、喉へ流し込むように飲んだ。あれっ!これは酒だと気ずいた時は校長と同じく茶碗は空になった。
…若いきにしょう飲みっぷりもええけん…さあもうひとつどうぞ!と勧められ、校長の遠慮せいでもええき!の声でまたあおった。
 結局、その日は校長の千鳥足を介抱しながら学校住宅にもどったのは午後六時をまわっていた。校長は酒好きの割合に五合くらいで酔ってしまい私は校長より二杯も遠慮せずにご馳走になったので七合ほど飲んだことになる。翌日は陰である。その日も委員の大きな破風のある家でドブロクをご馳走になったが沖とはすこしアルコールが濃いかんじで美味しかった。校長は猪鍋をつついてすっかり上機嫌になった。