吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウライ男の随想 六

2005年10月26日 16時19分32秒 | Weblog
カウライ男の随想 六

 時々雪が舞った。南国土佐で雪をみようとは思ってもみなかった。 長瀬川渓谷をはさんで東西に分かれる、蔭は日陰の時間が多く、続く柚ノ木は丘陵台地になって日当たりもよい。しかし背後の山陰は陽のさす時間はわずかで冬の間、スキー場になっている。 休日ともなれば南国スキーの面々が高知から朝の一番列車でやってきた。朝六時発の土讃線は一時間で豊永駅に到着、そこから三里の山道を徒歩で柚ノ木までやってくるのでのべ約四時間はかかるのだ。宿泊設備はないのでスキー客は日帰りとなる。
 柚ノ木からきている八木幸男の家ではそんな客のために貸しスキーを用意していた。
 小樽のようにカンダーハーもついてない革を鋲でしめる旧式だが滑走には差し支えはない。
 二、三十センチほどの雪が二度ほど降るともうスキーは可能である。
 一月と二月の休日に私はスキー場に通った。
 夜、下宿に時々猟師が訪ねてくる。男寡のガンさんだ。下宿をやってるイネさんの主人は三年前に脳溢血でたおれたままあの世へ旅だった。私と同じ年の一人の息子は新居浜の軍需工場へ、次男は満州の少年開拓団へはいっていた。
 ガンさんは話が大袈裟で彼がくると囲炉裏端からイネさんの笑い声が私の部屋まで届く。
 山の話に興味がわいて…月夜の渓谷でアマゴを釣ると、猿公(エンコウ)が現れて渕にアマゴを追い込んでくれる話をしていた。
 この猿公は猪猟にもどことなく現れて居場所を教えてくれると言うが…私はのちに職員室にあった郷土資料の民話でこの猿公の物語を知った。
 でもガンさんの猪猟の話はほんもので突進してくる牙にやられると細い立ち木はえぐられてしまうという。

コウライ男の随想 五

2005年10月26日 09時22分19秒 | Weblog
カウライ男の随想 五

 女子生徒逹はみな同じ大畑井に住む子供逹で離れてはいるが各自の家から徒歩で五、六分の距離である。月夜はべつとして夜は提灯なしでは歩けない。傾斜地の小道には崖あり、沢あり竹藪ありで転落すると大怪我をする。懐中電灯などもつ家庭はほとんどいない。「お父が先生にって!…」
 級長の芳香が差し出した徳利はドブロクの香りがした。
…今度赴任した先生は若いけんど、しょう(たいへん)酒に強いそうな…こんな噂は最初に校長と挨拶に行った大畑井の村会議員で学務委員の永森国盛の口から西峰全体にひろがるのに二日とかからなかった。
 そこで夜学にことかけてこうして集団でやってきたのだ。
 ドブロク攻勢は週に一度、男女生徒がかわるがわる夜にやってきた。
 昭和十七年には戦時統制令で主食は配給、酒類も同じで国民は食べるのにきゅうきゅうとしていた。
 高知市の市民はどの家も食料を求めて目の色変えて確保に夢中の暮らしを余儀なくされていた。農村も同じであるが主食は確保されていたので食べる心配はなかったし、酒類は違反だが密造酒にたよるほかなかった。
 土佐人気質というか、密造酒殺人事件も起きている。ある郡の間税調査に訪れた税務官が情報をもとにある農家を突然調査した所、奥座敷に大掛かりの醸造桶を発見、慌てた農民が梯子で上った税務官の梯子をひっくり返して、税務官は深さ二米ほどの醸造桶に転落死する事件が起きた。
 西峰ではそんな大掛かりの密造はなく、各自が自宅で飲む程度゛のドブロクは畑の小屋などでどの農家も作っていた。
 ただし生きた菌の変化も激しく、頃合の飲みぐあいは微妙らしい。 私は完成のドブロクを飲む立場でその苦労をしらなかった。

カウライ男の随想 四

2005年10月26日 08時32分29秒 | Weblog
カウライ男の随想 四

 私の下宿は大畑井を一望できる小さな丘の突端にあた。
 小太りで愛嬌たっぷりのキノダケと言う屋号の農婦の家である。 西峰は全戸が屋号をもっている。
 その屋号はこの地に人が住みついた遠い昔から人々の間になずけられそれぞれ意味のある屋号となった。
 縄文、弥生時代はさておいて西峰には平安時代に八木氏の勢力が徳島の祖谷地方から次第に浸透してきた。八木氏は安曇一族が西は備前、淡路、肥前から東に大和、河内から丹波、常陸、武蔵、陸奥、にいたるまで分布していった。
 受持ち生徒にも八木姓が三人いるが他の永森、笹岡、小笠原、三谷、上地、前田姓も多い。
 さて屋号であるが、ミネヤシキ、ヒウラ、下ヤシキ、オモヤシキ、西ヤシキ、堂ノシタ、カツラ谷、イノ下、ナカ屋敷、ウワナルノ東、カミノ前、トウメシノ東、ミチノ下、ナカノ道、東、チカラ石、ホコノ井、ドウノ前、アリ宮、フロノウ子、ナカ東、イタヤ、キウ子、セウケ、タニなどは教え子逹の屋号であり、村人は姓を呼ばずにオモヤシキの誰々が…と話し合う。
 子供逹は互いに名前を呼びあう。同姓が多いので例えば三谷と呼べば七、八人が返事するのだ。
 出席を取る時も名前で確認するのである。
 平家落人のせいで女の子の名前は断然優雅な香が多い。清香、恵美香、千代香、年香、千鶴香、佳香、きりがない。
 男子生徒の名前もちよっと読みにくい届けが多い。忠盛、佳盛、実盛、など盛も多いが、憲とかいてノリヨシ、博愛はノリヒロ、驀大、寛大など威勢のいい名前もある。昭和の初期の親逹の感覚からみてそんな名前が流行ったのだろう。
 さて赴任して五日目の夜、女子生徒、五人が提灯下げて下宿へ訪ねてきた。手にしたのはドブロクの入った一升徳利である。