昭和の小樽 二十六
その頃は次第に戦時色がしのびよって連合艦隊が小樽港にはいり、市内は水兵さん一色になり、浮浪者狩りなるものが行われ、私がその表情が好きでおいかけまわした手宮のアニもしばらく街から姿をけした。活動写真…当時、小樽ではそう呼んだが東京からきた叔母は映画としゃれた言葉だった。
『五人の斥候兵』の主演は小杉勇だったか藤田進だったか忘れたが私は胸を熱くして見たものだ。
活動写真にトーキなるハイカラな手法が始まったが、入船三丁目にあった大都活動写真専門の写真館では活動弁士がまだ二階の弁士席で浪速節のような声を張り上げて時代活劇に熱弁をふるっていた。 水天宮に向かって右側に松竹活動館があり、水戸光子や高峰秀子や木暮美千代の大女優の看板が道路を見下ろしていた。
『五人の斥候兵』や『エノケンの大活劇』花菱アチャコ、横山エンタツなどの漫才活動写真や浪曲の口演などは公園とおり左側の日活活動館で上演されていたと思う。
滅多にないことだがその頃、カツレツが大のご馳走で、公園とおりの縁日を見た帰りに、たまらぬ匂いのするカツレツ店に入った。 カツレツは今のトンカツのことである。カツレツはCut letの訛りで薄い肉にころもをつけて油の炒め焼きしたものをいったそうであるが、私の食べたカツレツも今のように厚くなかった。
土佐の田舎出身の母は料理といえばほとんど土佐の田舎料理で、たまに肉じゃがをつくる時に…コマギレ三百匁買うてきて!と使いにだされ、いつか細切れとは馬肉のことと友達にいわれ、以来、母にいわれても細切れ買いに行かなかった。子供心に市内の馬車馬の不格好で汗でひかる太い足を思い出して気持ちわるくなったのだ。 その頃の学童の服装は着物が二割、コールテン生地の長ズボンが七割、のこりの一割はサージかセルの上等生地で作った半ズボン姿で勿論裕福家庭の子の服装だった。
その頃は次第に戦時色がしのびよって連合艦隊が小樽港にはいり、市内は水兵さん一色になり、浮浪者狩りなるものが行われ、私がその表情が好きでおいかけまわした手宮のアニもしばらく街から姿をけした。活動写真…当時、小樽ではそう呼んだが東京からきた叔母は映画としゃれた言葉だった。
『五人の斥候兵』の主演は小杉勇だったか藤田進だったか忘れたが私は胸を熱くして見たものだ。
活動写真にトーキなるハイカラな手法が始まったが、入船三丁目にあった大都活動写真専門の写真館では活動弁士がまだ二階の弁士席で浪速節のような声を張り上げて時代活劇に熱弁をふるっていた。 水天宮に向かって右側に松竹活動館があり、水戸光子や高峰秀子や木暮美千代の大女優の看板が道路を見下ろしていた。
『五人の斥候兵』や『エノケンの大活劇』花菱アチャコ、横山エンタツなどの漫才活動写真や浪曲の口演などは公園とおり左側の日活活動館で上演されていたと思う。
滅多にないことだがその頃、カツレツが大のご馳走で、公園とおりの縁日を見た帰りに、たまらぬ匂いのするカツレツ店に入った。 カツレツは今のトンカツのことである。カツレツはCut letの訛りで薄い肉にころもをつけて油の炒め焼きしたものをいったそうであるが、私の食べたカツレツも今のように厚くなかった。
土佐の田舎出身の母は料理といえばほとんど土佐の田舎料理で、たまに肉じゃがをつくる時に…コマギレ三百匁買うてきて!と使いにだされ、いつか細切れとは馬肉のことと友達にいわれ、以来、母にいわれても細切れ買いに行かなかった。子供心に市内の馬車馬の不格好で汗でひかる太い足を思い出して気持ちわるくなったのだ。 その頃の学童の服装は着物が二割、コールテン生地の長ズボンが七割、のこりの一割はサージかセルの上等生地で作った半ズボン姿で勿論裕福家庭の子の服装だった。