吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

昭和の小樽 二十六

2005年10月22日 12時48分24秒 | Weblog
昭和の小樽 二十六

 その頃は次第に戦時色がしのびよって連合艦隊が小樽港にはいり、市内は水兵さん一色になり、浮浪者狩りなるものが行われ、私がその表情が好きでおいかけまわした手宮のアニもしばらく街から姿をけした。活動写真…当時、小樽ではそう呼んだが東京からきた叔母は映画としゃれた言葉だった。
 『五人の斥候兵』の主演は小杉勇だったか藤田進だったか忘れたが私は胸を熱くして見たものだ。
 活動写真にトーキなるハイカラな手法が始まったが、入船三丁目にあった大都活動写真専門の写真館では活動弁士がまだ二階の弁士席で浪速節のような声を張り上げて時代活劇に熱弁をふるっていた。 水天宮に向かって右側に松竹活動館があり、水戸光子や高峰秀子や木暮美千代の大女優の看板が道路を見下ろしていた。
『五人の斥候兵』や『エノケンの大活劇』花菱アチャコ、横山エンタツなどの漫才活動写真や浪曲の口演などは公園とおり左側の日活活動館で上演されていたと思う。
 滅多にないことだがその頃、カツレツが大のご馳走で、公園とおりの縁日を見た帰りに、たまらぬ匂いのするカツレツ店に入った。 カツレツは今のトンカツのことである。カツレツはCut letの訛りで薄い肉にころもをつけて油の炒め焼きしたものをいったそうであるが、私の食べたカツレツも今のように厚くなかった。
 土佐の田舎出身の母は料理といえばほとんど土佐の田舎料理で、たまに肉じゃがをつくる時に…コマギレ三百匁買うてきて!と使いにだされ、いつか細切れとは馬肉のことと友達にいわれ、以来、母にいわれても細切れ買いに行かなかった。子供心に市内の馬車馬の不格好で汗でひかる太い足を思い出して気持ちわるくなったのだ。 その頃の学童の服装は着物が二割、コールテン生地の長ズボンが七割、のこりの一割はサージかセルの上等生地で作った半ズボン姿で勿論裕福家庭の子の服装だった。

昭和の小樽 二十五

2005年10月22日 09時08分51秒 | Weblog
昭和の小樽 二十五

 昭和八年頃の小樽はニシン漁の大景気にわいていた。そして父から道内トップのニシン大漁の江差の三月の話…全国でもこれほどに景気に浮かれた三月はないと教えてくれた。
 たしかに入船市場の魚屋に並んだニシンの山、一皿に山盛りのニシンが一銭だった記憶がある。つまり十匹くらいで一銭なのだ。その頃銭湯の子供料金は三銭だったからいかに獲れたか分かる。しかも腹をさくと白子と数の子と混じっているのだ。
 川向かいの長屋の路地でなんでも屋のタッちゃんが桶いっぱいのニシンの腹を裂いていたのもその季節だった。
 小樽独特のニシン料理に鎌倉漬がある。二、三日生身を砂糖醤油に漬け、それを焼いて食べる料理である。そんな季節、子供逹の弁当箱には鎌倉漬のおかずが多かった。
 まだストーブを燃す季節だから弁当箱をあたためるので教室にはその香ばしい匂いが充満するのだ。
 その頃の小樽の壮年逹にはやったのがチョビ髭である。札幌師範を出たばかりの担任はまだ坊主頭の二十歳を過ぎた青年だったからチョビ髭はしていなかったが年配の校長をはじめ男子教諭逹は皆、チョビ髭をはやしていた。それに冬の大人逹の外套はオーバなどのしゃれたものを着る人はすくなく、父もどちらかといえばお洒落だったが、外出する時は(ほとんど活動写真か浪曲を聞きに)『とんび』にステッキ、中折帽のいでたちだった。
 『とんび』は黒の二重まわしのことで、裏地は黒繻子となっていた。
 冬の小樽の道路は凍った圧雪だからカバーつきの歯に滑り止めの鋲のついた下駄履き姿に格好つけるためのステッキを持つのである。 私は勿論長靴姿、父のあとをいやいやお供させられるのは浪曲の口演の時でエノケンなどの喜劇の活動写真などは街のポスターを事前にしらせて必ず見に行った。