吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

昭和の小樽 二十一

2005年10月20日 09時37分23秒 | Weblog
昭和の小樽 二十一

 瀬戸内春美がかって小樽へ初めてきて、舗装されてない道を嚇 (あかい)い道と表現した。
 私の脳裏に十一山の坂の雪解け道の残雪の割れ目に顔をのぞかせた嚇い土の喜びの色が浮かぶ。たしかに今と違って昭和初期の小樽はすべて砂利道だった。しかし公園とおりから公会堂にむかう道はアスフアルト道だったと記憶している。
 林扶美子が小樽を泥濘の町と書いた。
 いずれも戦前か戦後間もない頃に書いた記事であろう。
 少年時代の小樽の道路で私は困った思い出はひとつもない。
 夏。バリバリと荷馬車の轍が砂利を砕く音も今は懐かしい。
 たまに走る乗用車はたしかアメリカのフオード車で座席にいつも偉い人がふんぞりかえっていた。
 私逹はたまに見るそんな自動車の前照燈のガラスの厚さを見ては年式の新旧をあてあったりした。
 量徳小学校から入船町の自宅までの約、十数分の間に自動車を見るのは一台くらいだった。私はとくに乗合自動車の排気ガスの匂いを嗅ぐのが大好きだった。
 第一大通りの坂道、ナンタル駅への坂道と日によって道順を変えたりした。量徳寺の東向かい角は薬局だった。そのすぐ上にナンタル方面に通ずる道路があり、その西側にあった風呂屋(銭湯)の名は大正湯かどうか忘れてしまった。
 湯と言えば江戸時代までは日本で風呂とは蒸し風呂のことで、湯とは今日の公衆浴場のことだった。
 その頃の銭湯は子供逹にとっては格好の遊場所で、暖簾をくぐって出るまでの時間はゆうに一時間以上をついやした。
 厳冬の頃は外に出た途端、テヌグイは棒になり、睫は凍ってねばりつく。
 それでも銭湯は楽しい場所だった。