吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

昭和の小樽 三十

2005年10月24日 14時19分05秒 | Weblog
昭和の小樽 三十   

 天狗山から見下ろす小樽港は西の高島桟橋、東の平磯岬から東西にはしる防波堤がくっきりと美しい。平磯から突き出た防波堤の突端に白灯台、船舶が入出港する幅三百米くらいをあけて西に赤灯台の防波堤が走る。
 この防波堤は絶好の釣り場所だった。大人逹はもっぱらチヌ釣り専門で子供逹も負けじとアブラコ(アイナメ)釣りに腕を発揮する。 防波堤の内側と外側では波のうねりも違って港内が凪いでる時も外海は一米ほど海面が上下していた。餌はゴカイかホッキ貝のみを使い、浮き釣りである。ほとんどの釣り人は浮きから三米から五米ほどの間隔で餌をつけた錘を沈めている。
 アブラコの方は、底釣り専門で防波堤からすぐ下の海面に錘をつけて手応えをまつのである。
 アブラコの引きは強く、グーンと竿に手応えがくる。
 入れるとすぐ食いつくのはフグかシマダイの子である。
 アブラコがつれるまでそんな小物は針を外すだけで面倒な手間がかかるので小さな引きを感じるとがっかりしなければならない。
 チヌ(黒鯛)の味よりアブラコの方がずっと美味しいのである。 そんな防波堤も海が荒れると波頭が矢のように走り、根元の障害にぶつかって砕け散る。
 そんな光景を十一山のてっぺんから良く眺めた。
 とくに大時化の日の防波堤は悪魔が牙を剥く日である。
 波飛沫が白くあがったかと見る間に怒濤となって矢のごとく東西に走る姿はいかにも男らしく見ていて興奮した。         そんな日は停泊の汽船と汽船が大きくゆれ、港内も白波がたって岸壁から遠く離れて波飛沫がどっと音をたててぶつかる様をわざわざ見に行った。
 しかし運河だけはふだんと変わらず、ポンポン蒸気にいやいや引っ張られて荷を満載した艀が進んでいる。

昭和の小樽 二十九

2005年10月24日 08時02分20秒 | Weblog
昭和の小樽 二十九

 小樽の落ちついた市民の憩い場所が美しい花園公園である。
 その入り口門近くに新鮮な牛乳を提供する保証牛乳のミルクプラントが建ったと聞いて、早速父と一緒に朝早く公園散歩としゃれてその帰途、まるで外国へ行った雰囲気で飲んだ熱い牛乳の味はいまでも味わえないほど美味しかった。
 その公園の南に沿った小道の両側に栗の樹木が繁茂していて六月の季節は花の香りがいちめんに漂って深緑を謳歌していた。
 私が図書館で画集を見るためその小道を歩いているとむこうから白人の婦人が颯爽とした足取りでこちらにやってきた。
 婦人は突然、腰をかがめて道に落ちているなにかを拾って、柵の上に置いてまた歩きだした。私がそばを通って見ると、長さが四センチくらいのちびた鉛筆だった。
 そんなチビ鉛筆なら私だって投げ捨ててしまうのに…と思って振り返り、婦人は小樽に多い白系ロシア人だった。ふと外国では節約を大切にするんだな…と子供心に学び、当時アルミ製の鉛筆サックを求め、三センチほどに減った鉛筆にかぶせて使うことにした。特にスケッチに使う4B鉛筆の減りがはげしいので大変役立つた思い出がある。
 公園の南斜面は崖になって冬になるとアプローチ用の櫓が組まれ、小さなシャンツェとなった。
 図書館は白ペンキ塗りの洋式建築でこんもり茂った樹木、それが、秋になっての落葉の大きさから見て、きっとプラタナスだったかも知れない。
 小樽っ子のキャラメルは森永や明治より、札幌のフルヤキャラメルがミルクの味が濃くて評判だった。冬用のウインターキヤラメルも人気があった。
 やや勾配なった公園入口のミルクプラントの建物は公園通りと交差する第一大通りから白い清潔な建物として美しく望めた。