吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

昭和の小樽 二十八

2005年10月23日 16時59分45秒 | Weblog
昭和の小樽 二十八

 小樽名所のひとつにオタモイ海岸がある。
 私はオタモイ海岸の美しさをと父から聞いてぜひ写生したいと思っていた。
 その念願がかない、叔母が長崎街(?)に住んでいたのでそこへ寄った足で小さな峠を越えてオタモイに着いた。         私はそれまで見た、蘭島や塩谷海岸を想像してたので海岸のイメージが吹き飛んでしまった。
 絶壁道からはるか下に白い砂浜に迫る透明の海が青々とひろがっている。いくつもの岩礁のまわりに漂う昆布の群生、青く輝く海底の石、まるで童話の竜宮城のせかいだった。
 地理でまなんだ京都の清水寺と同じ櫓をくんだ建造物が絶壁に張り付いたように建っている。
 小樽でこんな透明の海を見たのは初めてで、帰宅してあまりにも美しい海底をクレパスで表現するのになんども描き直してひと月もかかってしまった。その絵は三年後に中学の絵画展で特選を取った。 叔母の家で色々ご馳走になったのでオタモイの大きな食道には入らずに入船町にかえったのが悔しかった。
 私はカレーライスの看板をみてしまったのである。
 帰り道、稲穂町をとおり、今井百貨店をのぞいて五階の玩具売り場で買ったおもちゃが百連発だったか、トランプだったか忘れたがいまもその百貨店はあるのだろうか。小樽では近代的と言われた映画館の電気館でキングコングをみたのもその頃である。
 夏の公園とおりは縁日でガス(アーク灯か?カーバイト灯か…)灯が何故か涼しい光景にみえたのは何故だろう…日活活動写真館よこの食堂のウインドーに水が流れ、アイス氷が回転し、冷たい氷水を食べて頭の芯が痛くなって外へでたせいかもしれない。
 昔、この夜店で本をならべて売った伊藤整の高商生だった頃のバイト話を聞いた事がある。

昭和の小樽 二十七

2005年10月23日 10時44分48秒 | Weblog
昭和の小樽 二十七

 スズランは北海道の春のシンボルである。
 昭和九年に私は小樽のスズラン通りを興味しんしんとして歩いた。 しんしんとは大人めいた表現だがほんとに眩しい思いでこの北国の華麗な街に感動したのだ。鉄製の街灯の飾りにスズランをあしらって十米ごと両側に並んだ景色は見事だった。
 私はなんとなく北国の情緒に子供心ながら畏敬の念をもって日々を過ごしていた。
 一日に何度も飛んだ入船川を根城に第一大通りの坂道を東に約二百米ほど(実際もっとあったかも)のぼりつめた十字路の南側の角に市立小樽病院の二階建てコンクリートの建物があった。その土台は城壁のような石垣造りで、私はパラシュートのようにこうもり傘で病院から飛び下りたらさぞ面白いだろうなぁと空想して入船川二丁目の路地奥の崖から三米ほど飛び下りる練習を餓鬼友達と試みた。 実際、こうもり傘を開いて飛んだが衝撃はきつくて諦めた。これは小学校四年生の悪戯遊びのひとつである。今なら空を行く鉄腕アトムの夢だろう。
 私はあやふくこの病院で耳の手術をされるところだった。内耳炎にかかって耳だれがひどく、日頃、薬の匂いが大嫌いだった私はしぶしぶ母に連れられて小樽病院の門をくぐった。診察室で耳鼻科の先生が…これは手術せねば!…と言った途端、脱兎のごとく私は診察室からずらかったのである。その夜、両親からきつく叱られたが、本人が嫌ならしょうもないけん…毎日、脱脂綿で耳掃除じや!と母の助け船で手術を免れ、半年後に自然に治ってしまった。同じ頃、友人のA君は手術をして右耳の後に醜い傷跡をのこしてしまった。 この病院は同じ富山出身の父の知り合いの大河原病院とちがって厳めしい門とその脇に守衛の怖い顔した髭顔の男がいて、もうそれだけでいつ逃げだそうとして作戦をねっていたのだ。
 いまでもあのドームの美しい小樽病院の面影が脳裏に浮かぶ。