昭和の小樽 二十四
小樽運河は大正三年に工事が始まり、大正十一年に完成した。 私が小学三年生の時に見た運河は出来てまだ十二年しかたっていない新品の運河で、周囲の倉庫群も築造したばかりの面影があった。 子供心に心配したのは艀(はしけ)の沈まないことだった。と言うのは雑穀俵を満載した艀の吃水はわずか十センチ、いまにも沈没しそうになったまま、ポンポン蒸気船に引かれて行く艀、それも何隻もつながって引かれて行く。ざっと数えただけで俵の数は五、六十表はある。
港内は汽船のラッシュで沖で荷役をすませ、艀で運河を進み、倉庫に格納されるのである。
運河の水は澱んで不透明の色で流れ込む土砂が蓄積するのでいつも浚渫(しゅんせつ)船がクレーンの先につけた大きな鉄製の掻爪で土砂をさらっていた。
私はそんなスケッチとくにダルマ船が駄々をこねてひっぱって行かれる光景をこのんで描いた。
小樽運河は海を埋め立てて造成した全国でも類のない規模と聞いている。
私は運河のスケッチに、と言って母からの五銭を懐に入船に近い運河からの北海製缶工場の建物などスケッチして描きためた。
そんな楽しみに天秤棒売りのボタ餅屋がある。荷揚げ労働者相手に頃合の時間にのんびりした掛け声でやってくる。
帰りは色内の銀行街建物のスケッチをしながら、妙見川へ出て帰宅したりした。
手宮の古代文字を見に行ったのもこんな時だったと思う。
話を耳にしただけでわくわくした期待感をもって埃り道を歩いてやっと到着したが、埃だらけの金網に顔をつけてのぞいても、不気味な赤い崖に幾何学的な模様がやっと確認できただけだった。け、
小樽運河は大正三年に工事が始まり、大正十一年に完成した。 私が小学三年生の時に見た運河は出来てまだ十二年しかたっていない新品の運河で、周囲の倉庫群も築造したばかりの面影があった。 子供心に心配したのは艀(はしけ)の沈まないことだった。と言うのは雑穀俵を満載した艀の吃水はわずか十センチ、いまにも沈没しそうになったまま、ポンポン蒸気船に引かれて行く艀、それも何隻もつながって引かれて行く。ざっと数えただけで俵の数は五、六十表はある。
港内は汽船のラッシュで沖で荷役をすませ、艀で運河を進み、倉庫に格納されるのである。
運河の水は澱んで不透明の色で流れ込む土砂が蓄積するのでいつも浚渫(しゅんせつ)船がクレーンの先につけた大きな鉄製の掻爪で土砂をさらっていた。
私はそんなスケッチとくにダルマ船が駄々をこねてひっぱって行かれる光景をこのんで描いた。
小樽運河は海を埋め立てて造成した全国でも類のない規模と聞いている。
私は運河のスケッチに、と言って母からの五銭を懐に入船に近い運河からの北海製缶工場の建物などスケッチして描きためた。
そんな楽しみに天秤棒売りのボタ餅屋がある。荷揚げ労働者相手に頃合の時間にのんびりした掛け声でやってくる。
帰りは色内の銀行街建物のスケッチをしながら、妙見川へ出て帰宅したりした。
手宮の古代文字を見に行ったのもこんな時だったと思う。
話を耳にしただけでわくわくした期待感をもって埃り道を歩いてやっと到着したが、埃だらけの金網に顔をつけてのぞいても、不気味な赤い崖に幾何学的な模様がやっと確認できただけだった。け、