吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

昭和の小樽 二十四

2005年10月21日 16時45分55秒 | Weblog
昭和の小樽 二十四

 小樽運河は大正三年に工事が始まり、大正十一年に完成した。  私が小学三年生の時に見た運河は出来てまだ十二年しかたっていない新品の運河で、周囲の倉庫群も築造したばかりの面影があった。 子供心に心配したのは艀(はしけ)の沈まないことだった。と言うのは雑穀俵を満載した艀の吃水はわずか十センチ、いまにも沈没しそうになったまま、ポンポン蒸気船に引かれて行く艀、それも何隻もつながって引かれて行く。ざっと数えただけで俵の数は五、六十表はある。
 港内は汽船のラッシュで沖で荷役をすませ、艀で運河を進み、倉庫に格納されるのである。
 運河の水は澱んで不透明の色で流れ込む土砂が蓄積するのでいつも浚渫(しゅんせつ)船がクレーンの先につけた大きな鉄製の掻爪で土砂をさらっていた。  
 私はそんなスケッチとくにダルマ船が駄々をこねてひっぱって行かれる光景をこのんで描いた。
 小樽運河は海を埋め立てて造成した全国でも類のない規模と聞いている。
 私は運河のスケッチに、と言って母からの五銭を懐に入船に近い運河からの北海製缶工場の建物などスケッチして描きためた。
 そんな楽しみに天秤棒売りのボタ餅屋がある。荷揚げ労働者相手に頃合の時間にのんびりした掛け声でやってくる。
 帰りは色内の銀行街建物のスケッチをしながら、妙見川へ出て帰宅したりした。
 手宮の古代文字を見に行ったのもこんな時だったと思う。
 話を耳にしただけでわくわくした期待感をもって埃り道を歩いてやっと到着したが、埃だらけの金網に顔をつけてのぞいても、不気味な赤い崖に幾何学的な模様がやっと確認できただけだった。け、

昭和の小樽 二十三

2005年10月21日 09時47分10秒 | Weblog
昭和の小樽 二十三

 母校の量徳は創建当時北海道第一の建設規模の学校であった。
 昭和九年に旧校舎から新校舎にかわったが丁度、私が三年生の春だった。
 朝礼は全校約、千八百人もの生徒でまさに圧巻だった。
 校庭には新しい鉄棒や楼木などの運動補助設備もあって当時としては超近代的な学校だった。
 私の記憶では屋内体育館への廊下はスロープ状になって階段なしに二階へ行く事が出来た。
 五年生の時はむかいの双葉高女に面した二階で、冬用に特別誂えの戸袋が廊下を挟んで設置されていたので子供逹の外套はここに保管されるのだ。
 今の暖房は近代的だと思うが当時の冬は今より平均気温が低く、マイナス十五度をくだる日が続いて、ダイヤモンドダストをなんども見た記憶がある。各教室の隅に径が五、六十センチもあるズンドウストーブプが設置され、教室は春の気配だった。給食がないので各自のアルミ製の弁当箱をストーブの上においてあたためるのでおかずの匂いが教室に充満した。
 時々、ミガキニシンをあぶる子もいたり、二月あたりは餅持参の子供逹が焼く餅の匂いも今は懐かしい思い出だった。
 アメリカから招いた鉄道技師のクロフォードが最初に寄宿したのが量徳小学校の教室との話を受持ちから聞いたことがある。
 明治十三年には再び小樽へやってきて、宿舎として双葉高女の場所に当時の小樽の人々が異人館と呼んだ建物もつくられた。
 神戸にも古くから異人館とおりがあるが果たしてどちらがふるいのだろう。
 かなしきことは 小樽の町よ 歌うことなき 人々の声の荒さよ この啄木の歌は小樽日報で争った小林寅吉を比喩したのでなく声のあらさは小樽の人々の活気ぶりを歌ったのかも…と思う。    

昭和の小樽 二十二

2005年10月21日 08時46分31秒 | Weblog
昭和の小樽  二十二

 私の青春時代の宝は戦時中、四国の平家落人の里で教鞭をとったことである。十七才の春、国民学校高等科一年生を受け持ったその子供逹も今年で七十七才、きたる十一月十二日に十六回目の同窓会開催の通知を受け取った。
 この教え子を二年で私の代わりに受け持った秀才がいた。東南アジア国際弁護士会長を勤め、日本弁護士会副会長だった大坪憲三先生である。昨年、病気でなくなるまで二人はそろって昭和十八年高等科卒の教え子の招待をうけた。これも異例だった。彼らの同窓会に招待をうけたのは何故か私と大坪弁護士二人だけなのだ。
 そんな青春の宝を得る原因は小樽だった。前にもふれたが花園町の南部せんべい屋に小樽日報に勤めた啄木が下宿していたその前を通っては奥を覗き見して、同じく熱烈な愛読者だった姉から聞いた話を胸にいったいどんな思いで啄木がこの小さなせんべい屋の二階ですごしたのだろうと子供心に胸が熱くなった思いがある。    家庭の事情で中学四年生の春、小樽から母の実家の高知に転校したとき、ひそかに国民学校の教師をになることを決めていた。赴任する私の行李には啄木の詩や小説文庫本がぎっしりつめこまれていた。一年が過ぎて私は引き続き、上級学校への進学をあきらめ、東京府下西多摩郡の国民学校へ転任し、軍隊にはいるまで教師を勤めた。大坪先生は神戸商大予科から学徒動員で操縦見習い士官を経験、復員後は東大法学部から司法試験をとって後、高松で検事を勤めた後弁護士となった。
 立場はちがっても青春の原風景の国民学校教師時代を二人はわすれることがなかった。
 あの時、小樽で啄木にそれほど関心をしめさずに過ごしたなら、私の人生体験は大きく変わっていただろう。 
 花園町の三叉路のそのあとには三階建て住宅が建っていて、そこを通る小樽市民のほとんどは啄木がいた跡地と知る人はいない。