1、レンタサイクル屋は副業する
今朝のレンタサイクル屋は、ジャケットを着る。
本来は作業着なのだが、
きょうは例外。
レンタサイクル屋。
まあ、普通に考えたら
「食っていけない仕事」だ。
まして北海道の美瑛だから
実際に稼げる期間は一年のうち3〜4ヶ月しかない。
当たり前だが、
これでは家族を養うなど、到底無理なのだ。
ボク以外の美瑛の他のレンタサイクル屋さんには「本業」がある。
貸自転車は、ほんの副業。
ブレーキが効かないなど、ひどい評判が散見されるが、そういう背景がある。整備しようにも機械いじりとは無縁なのだから無理もない。
一方で、僕の「ガイドの山小屋」は、ほぼ専業だ。本業は「山岳ガイド」だったが、いまは違う。
山岳ガイドもレンタサイクルも、それだけでは食えない仕事だ。
だから、ガムシャラにいろんなことをして足りない分は稼がなくてはならない。
食っていく、ということは、
大変なことなのだ。
だから、
北海道に「移住」を考えている人は、
その辺のこと、よくよく考えなければならないだろう。
食えなくては、移住はどうにもならない。
さて。
レンタサイクル屋はいま、四国高知にいる。
レンタサイクル以外の仕事で来ている。副業といっていい。
今朝は大切な契約があるのに、
服がなくて、レンタサイクル屋は戸惑っている。
適当に持ってきた服は、
ラガーシャツ、
ラガーシャツみたいなポロシャツ、
ラガーシャツみたいな入れ墨シャツ、
どれもこれも!
ジャケットに合わない!
ちんちくりんじゃないか!
駄目駄目やん!
ワイシャツを忘れたのだ。
朝っぱらから涙目でいたら、
意外にも、
高知は暑いかもと思い、念のため持ってきた速乾素材のポロシャツがしっくりきた。
ジャケットを着たら胸のデザインは隠れるから、これでいいだろうということにした。
やれやれ。
慌てたじゃないか。
2、土佐でうがいする
仕事は午前中に終わり、
午後からは暇になった。
まずは、うがい。
土佐ではこれを「うがい」という。
外から帰ったらまず、うがいなのだ。
郷に居れば郷に従え
うむ。
従わなければならない。
土地のものを食う。
やっぱり土佐はコレぜよ!
お腹も落ち着いたので、散歩する。
美瑛にいるときは、「旭川って都会〜」ってなるけど、さすがに高知市は県庁所在地だけあって
旭川とは比較にならない都市だ。
土佐の高知の、はりまや橋。
昔は小さな橋だったらしいが、
今は複線の路面電車+6車線道路になっている。
観光用の復元橋もある。
しかし、趣はイマイチ。
橋なのに、川はない。
川?ではなく、遊水池遊歩道になっている。
しかし、パッとしない。
ものの3分も歩かないうちに終わる。
はっきりとしたことは言えないけれど、
僕が幼い頃、ここはドブ川だった。
まもなく埋め立てられて、ただの路地になり、長らく、はりまや橋の下も通路だったように思う。
高知に住んでいたわけではないから、何ともはっきりしないが、パッとしない場所だった。
あらためて今、この場所を見たら、
ここはお城の「お堀」の一部じゃないだろうか?
という気がしてきた。
地形と立地が、ここが「堀」であることを指している。
高知城の、外堀の役目を担うものではないだろうか。
「うがい」の効果も手伝って、
僕は、歩いてみることにした。
3、城下町の痕跡
はりまや橋からの遊水池遊歩道が途絶えた先は、公園になっていた。
そのまま公園内を歩いていく。
また、別の遊水がある。
ときどき後ろを振り向いて、はりまや橋からの方向、角度を確認しながらすすむ。
それらしい地形はその先で90度曲がり、さらに続く。
まだ見えないが、左側には高知城がある。
お堀の痕跡を示すものはどこにも見当たらない。
うーむ、車道と車道の間、
この、中央分離帯にしては不自然な広さの緑地、
まさにこの区切りが「堀」ではないのか?
城下町に因む案内板があるが、ここが堀だとはどこにも書いていない。
勘違いか?
そのうち、行き止まりになった。
しかし、何かある。行ってみる。
川??
お世辞にも綺麗とは言えないが、川に接続していた。
やはり!
しかし、証拠はないぞ。
少し戻って、
お城の方向を目指す。
武家屋敷だったこのあたりは空襲で焼け野原になったので、名残はない。
しかし、
この、間口の狭さが、かつて武家屋敷だったことを物語る。
与力というから、さほど高い身分ではないから、家老屋敷のようなわけにはいかない。
町屋によくある区割りがそのまま世襲されている。
途中から「追手筋」を歩く。
このまま進めば追手門。お城の正面玄関に当たる。
途中にあった高校は立派な建物だった。
きっと伝統校だろう。
だいたい県庁所在地のこの立地にある高校は偏差値が高い。
調べてみたら65だった。まずまずだ。
お城が見えてきた。
本丸は標高44mの大高坂山に築かれている。
天守は、静岡の掛川城に瓜二つだ。
それもそのはず。
高知城も掛川城も山内一豊によって築城されたのだ。
山内一豊はよほど掛川に思いを残しての「転勤」だったに違いない。
だから、新しい赴任地の高知に新たな「掛川城」を築いたのではないだろうか。(憶測)
あ!この案内看板は!
古地図!
かつての城下町の地図!
僕が歩いた経路は堀になっていて、その堀が武家屋敷と町人町の境界線になっている。
白の矢印がボクが歩いた経路。
ここはやはり間違いなく「堀」だったのだ。
「掛川町」なんてのもあったんだなあ。
うれしいなあ。
4、兵隊さんと高知城
やっぱりここは、堀のままのほうがいいんじゃないかと妄想する。
堀端には桜が咲いて、
屋形船が往来して、
お酒もすすんで、はりまや橋。
そりゃあ、
土佐の酒呑みには、たまらんぜよ!
終戦後の逸話。
僕の母(高知出身)は
終戦時、小学生だった。
歳のせいか、最近は小中学生だった頃の話をよくする。
B29の音の話。絶対に忘れない不気味な音なのだという。
それから、
祖父の仲良しで、東京から疎開してきたシュモンさんという大好きな叔父さんのこと、通っていた女子校と同級生のこと、
それから、
母が高知のお城のことを話すとき何度も何度もこの話をするので僕はタコ耳なのだが。
以下。
土佐は明治維新のとき官軍側だったおかげでお城の破却を免れ、昭和に至ってなお健在だった。
太平洋戦争では高知の町は空襲にあい、焼け野原だったが、
大高坂山の山頂付近、高知城の本丸は空襲の被害を免れた。
高知城は落ちなかった。
だから高知城本丸は天守を含めてほぼ完全な形のまま維新前の姿を今に残している。
戦地から帰ってきた兵隊さんたちは、高知が空襲でやられたことは知っていた。
復員列車から降り立ったとき、
まず、
予想通りの焼け野原。
見慣れた高知の町は、もうそこにはなかった。
しかし、その先、
大高坂山に凛と立つ、
高知城を見たという。
兵隊さんたちはみな、
泣いたという。
それが、
高知城なのだ。
今朝のレンタサイクル屋は、ジャケットを着る。
本来は作業着なのだが、
きょうは例外。
レンタサイクル屋。
まあ、普通に考えたら
「食っていけない仕事」だ。
まして北海道の美瑛だから
実際に稼げる期間は一年のうち3〜4ヶ月しかない。
当たり前だが、
これでは家族を養うなど、到底無理なのだ。
ボク以外の美瑛の他のレンタサイクル屋さんには「本業」がある。
貸自転車は、ほんの副業。
ブレーキが効かないなど、ひどい評判が散見されるが、そういう背景がある。整備しようにも機械いじりとは無縁なのだから無理もない。
一方で、僕の「ガイドの山小屋」は、ほぼ専業だ。本業は「山岳ガイド」だったが、いまは違う。
山岳ガイドもレンタサイクルも、それだけでは食えない仕事だ。
だから、ガムシャラにいろんなことをして足りない分は稼がなくてはならない。
食っていく、ということは、
大変なことなのだ。
だから、
北海道に「移住」を考えている人は、
その辺のこと、よくよく考えなければならないだろう。
食えなくては、移住はどうにもならない。
さて。
レンタサイクル屋はいま、四国高知にいる。
レンタサイクル以外の仕事で来ている。副業といっていい。
今朝は大切な契約があるのに、
服がなくて、レンタサイクル屋は戸惑っている。
適当に持ってきた服は、
ラガーシャツ、
ラガーシャツみたいなポロシャツ、
ラガーシャツみたいな入れ墨シャツ、
どれもこれも!
ジャケットに合わない!
ちんちくりんじゃないか!
駄目駄目やん!
ワイシャツを忘れたのだ。
朝っぱらから涙目でいたら、
意外にも、
高知は暑いかもと思い、念のため持ってきた速乾素材のポロシャツがしっくりきた。
ジャケットを着たら胸のデザインは隠れるから、これでいいだろうということにした。
やれやれ。
慌てたじゃないか。
2、土佐でうがいする
仕事は午前中に終わり、
午後からは暇になった。
まずは、うがい。
土佐ではこれを「うがい」という。
外から帰ったらまず、うがいなのだ。
郷に居れば郷に従え
うむ。
従わなければならない。
土地のものを食う。
やっぱり土佐はコレぜよ!
お腹も落ち着いたので、散歩する。
美瑛にいるときは、「旭川って都会〜」ってなるけど、さすがに高知市は県庁所在地だけあって
旭川とは比較にならない都市だ。
土佐の高知の、はりまや橋。
昔は小さな橋だったらしいが、
今は複線の路面電車+6車線道路になっている。
観光用の復元橋もある。
しかし、趣はイマイチ。
橋なのに、川はない。
川?ではなく、遊水池遊歩道になっている。
しかし、パッとしない。
ものの3分も歩かないうちに終わる。
はっきりとしたことは言えないけれど、
僕が幼い頃、ここはドブ川だった。
まもなく埋め立てられて、ただの路地になり、長らく、はりまや橋の下も通路だったように思う。
高知に住んでいたわけではないから、何ともはっきりしないが、パッとしない場所だった。
あらためて今、この場所を見たら、
ここはお城の「お堀」の一部じゃないだろうか?
という気がしてきた。
地形と立地が、ここが「堀」であることを指している。
高知城の、外堀の役目を担うものではないだろうか。
「うがい」の効果も手伝って、
僕は、歩いてみることにした。
3、城下町の痕跡
はりまや橋からの遊水池遊歩道が途絶えた先は、公園になっていた。
そのまま公園内を歩いていく。
また、別の遊水がある。
ときどき後ろを振り向いて、はりまや橋からの方向、角度を確認しながらすすむ。
それらしい地形はその先で90度曲がり、さらに続く。
まだ見えないが、左側には高知城がある。
お堀の痕跡を示すものはどこにも見当たらない。
うーむ、車道と車道の間、
この、中央分離帯にしては不自然な広さの緑地、
まさにこの区切りが「堀」ではないのか?
城下町に因む案内板があるが、ここが堀だとはどこにも書いていない。
勘違いか?
そのうち、行き止まりになった。
しかし、何かある。行ってみる。
川??
お世辞にも綺麗とは言えないが、川に接続していた。
やはり!
しかし、証拠はないぞ。
少し戻って、
お城の方向を目指す。
武家屋敷だったこのあたりは空襲で焼け野原になったので、名残はない。
しかし、
この、間口の狭さが、かつて武家屋敷だったことを物語る。
与力というから、さほど高い身分ではないから、家老屋敷のようなわけにはいかない。
町屋によくある区割りがそのまま世襲されている。
途中から「追手筋」を歩く。
このまま進めば追手門。お城の正面玄関に当たる。
途中にあった高校は立派な建物だった。
きっと伝統校だろう。
だいたい県庁所在地のこの立地にある高校は偏差値が高い。
調べてみたら65だった。まずまずだ。
お城が見えてきた。
本丸は標高44mの大高坂山に築かれている。
天守は、静岡の掛川城に瓜二つだ。
それもそのはず。
高知城も掛川城も山内一豊によって築城されたのだ。
山内一豊はよほど掛川に思いを残しての「転勤」だったに違いない。
だから、新しい赴任地の高知に新たな「掛川城」を築いたのではないだろうか。(憶測)
あ!この案内看板は!
古地図!
かつての城下町の地図!
僕が歩いた経路は堀になっていて、その堀が武家屋敷と町人町の境界線になっている。
白の矢印がボクが歩いた経路。
ここはやはり間違いなく「堀」だったのだ。
「掛川町」なんてのもあったんだなあ。
うれしいなあ。
4、兵隊さんと高知城
やっぱりここは、堀のままのほうがいいんじゃないかと妄想する。
堀端には桜が咲いて、
屋形船が往来して、
お酒もすすんで、はりまや橋。
そりゃあ、
土佐の酒呑みには、たまらんぜよ!
終戦後の逸話。
僕の母(高知出身)は
終戦時、小学生だった。
歳のせいか、最近は小中学生だった頃の話をよくする。
B29の音の話。絶対に忘れない不気味な音なのだという。
それから、
祖父の仲良しで、東京から疎開してきたシュモンさんという大好きな叔父さんのこと、通っていた女子校と同級生のこと、
それから、
母が高知のお城のことを話すとき何度も何度もこの話をするので僕はタコ耳なのだが。
以下。
土佐は明治維新のとき官軍側だったおかげでお城の破却を免れ、昭和に至ってなお健在だった。
太平洋戦争では高知の町は空襲にあい、焼け野原だったが、
大高坂山の山頂付近、高知城の本丸は空襲の被害を免れた。
高知城は落ちなかった。
だから高知城本丸は天守を含めてほぼ完全な形のまま維新前の姿を今に残している。
戦地から帰ってきた兵隊さんたちは、高知が空襲でやられたことは知っていた。
復員列車から降り立ったとき、
まず、
予想通りの焼け野原。
見慣れた高知の町は、もうそこにはなかった。
しかし、その先、
大高坂山に凛と立つ、
高知城を見たという。
兵隊さんたちはみな、
泣いたという。
それが、
高知城なのだ。