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日米の携帯電話事情とインターネット

2010-01-07 23:35:00 | 日記
帰国した際にいつも思うのが日本のケータイの特殊性。
まずデザイン。
マジンガーZやトランスフォーマー的なデザインが好まれているようだ。
細かな部品ををいくつも使って一つのケータイを組み立てているので、つなぎ目やフレームがどうしても目に付いてしまう。車はユニボディーに出来るのだから技術はあるはずだと思っていたのだが、東芝の製品デザイナーの人から日本にはその技術がないといわれた。簡単な例が、iPhone のように角を丸くまとめるように個体を掘り出すと言う製法が不可能なのだそうだ。

さらに、一つの製品のサイクルが短いので次々に新しい商品を売り出す必要がある。消費者にはハードウェアースペックを重視する傾向があるので、新製品では数字を改善させることが必須条件であるにある。例えば、ユーザーインターフェースが洗練されているより、カメラの解像度が数字で10メガと言う方が売りやすいそうだ。

そこで振り返ってみると、製品の比較サイトでは使い勝手の良さとか耐久性がアメリカでは重視されているし、市場ではデザインのすっきりしたものの方が好まれている。はっきりと違いが出ている。

アメリカではどうして日本のケータイ的なものが流行らないのだろう。生活の中での使い方が違うからではないか。まずアメリカではコンピューターが基本にあって、インターネットは必須である。外で持ち歩く機器もインターネットやメールがコンピューターと同じ感覚で出来なければならない。

テレビは?という問いに対しては環境が違うと言うしかない。見逃した番組は過去2ヶ月分くらいならインターネットを通じて観られる。しかもコンピューターならHDである。要するに受け身一方通行のテレビ配信より双方向のインターネットやオンデマンドが伸びてきているのだ。うちでも過去3ヶ月で通常の番組を観たのは1時間にも満たない。ほとんどがオンデマンドの番組である。ニュースは欧米日の新聞社やテレビ局のサイトで閲覧しているので観たい時に欲しい情報を入手するというスタイルである。ちなみに、1時間にも満たない番組とは大変ローカルな地区情報を得るために視聴した。

自分の場合、住所録や予定表はクラウドなので携帯端末とコンピューター数台が常にシンクしている。もう昔に戻れない。CPUを変えようが携帯電話を買い換えようがデータを移すなんて言うのは過去の話となった。

おそらく携帯電話の違いの根本はインターネットを通じて得られる内容の差によるのではないだろうか。

アメリカではテレビや映画と言ったエンターテイメントに始まり、 FaceBook や Twitter などのSNS、データ管理まですべてがインターネットを通じて一体化している。従って携帯端末も電話機と言うより、それらの情報を取り扱いやすいように進化しなければならない。今時、電話機を耳に当てている人よりテキストを入力している人の方が圧倒的に多いのは、そのためだろう。そう考えると、日本のケータイ的な電話機には住み処がないことになる。

逆に考えると、インターネットの価値が低いのでスマートフォンが日本でブレイクしないということになる。日本ではインターネットを通じて本も読めないし、映画や見逃したテレビ番組も観られない。新聞社のサイトに至っては内容の貧弱さに愕然とする。レベルの低い無料サイトや広告と連動しているうっとうしいサイトはあるけれど、有料のコンテンツが充実していないのだ。情報にお金を払わない文化があるのかも知れないが、気がかりである。例えば、情報を集めて整理してくれた人に感謝して視聴料を払うとか、ソフトを作ってくれた人に「頑張ってもっと良い製品を頼むよ」と代金を払う習慣がない。これではコンテンツが育たないのは致し方ない。

日本にスマートフォンの未来はあるのだろうか。


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