「花と蝶」
雑草だらけの庭の草花もだんだん秋色になってきたような気がする。
おまけ
「濁流とアオサギ」
台風が去ったあと散歩の途中近くのお寺に立ち寄った。
76年前の今日8月9日、長崎に原爆が投下された。
その年には7万5千人、今年で合計14万人以上が亡くなった。
また同じ年の3月10日には東京大空襲で10万以上が亡くなった。
亡くなった方のご冥福をお祈りいたします。
おまけ
台風9号の影響で水嵩が増えた自宅前の今迫川。
庭の片隅で”ヤブラン”が満開になった。
”ラン”と言ってもランの特徴がないので本当の”蘭”科植物ではないだろう。
おまけ 「葉 月」
アガパンサスの葉の上にケヤキの葉が落ちていた。
8月は木の葉が秋に向かって変化することから別名”葉月”とも言うらしい。
アジサイやバラなどの葉も変化し始めている。
まだ暑い日が続いているが秋はもうそこまで来ている。
庭の片隅のケヤキの木に蝉が・・・十数匹・・・。
影が薄くなったせいか「近くに行っても逃げてくれませ~ン」(”ヒロシですヒロシです・・・)
おまけ 「自写像」
近くのゴミステーションにて
我が家の手入れの行き届かない雑草だらけの庭にサッカーボールがある。
高校生の時東京オリンピックがあり駒沢競技場でブラジルと当時のアラブ連合共和国?とのサッカーの試合を見に行ったことを思い出すが・・・。
それにしても男子サッカーの選手は”痛がり屋さん”?が多いナ・・・と思いながらいつも試合を見ている。
今日は二十四節季の「大暑」の日になる。
暦通り一日中暑かった。
午前中写友のK氏が撮影に誘ってくれた。
久しぶりの日本海には今晩の”聖火”を暗示するような雲が出ていた。
それにしても8年前「お・も・て・な・し」で東京オリンピックが決まった時のあの歓喜の表情はどこに行ったのだろうか。
今年になってオリンピックで言えば関係者や選手、政治家、一般市民には笑顔がなく表情はとても暗い。
笑顔といえば唯一聖火(トーチ)ランナーの”作り笑い”ぐらいだろうか。
心からオリンピックが大過なく終わることを願っている。
数日前の梅雨明けと同時に庭の片隅のケヤキの木にたくさんのセミが・・・。
池にはカエルが・・・。
ベランダには・・・。
小さなカメラを持って花壇を三周して・・・今日も大過なく過ごすことができたかナ~・・・???
今日私が住んでいる地方が梅雨明けしたとニースで言っていた。
健康な人なら20歩で一周できる花壇をカメラを持って足が弱くなったお爺さんは写材を探しながら100歩ぐらいかかって歩いた。
雑草の中から小さな花を探して写してみたが・・・。
大雨の後クモの巣に雨粒が・・・。
朝食ごろ「梅雨明けの大雨」が降り久しぶりに雷の音を聞いた。
アメリカの第二の国歌と言われている「星条旗よ永遠なれ」と同じ作曲者である”スーザー”の「雷神」を思い出した。
曲中に演奏される鉄琴とピッコロは稲妻を、トロボーン、スーザー・フォン、チュウーバ、打楽器が雷の音を表現していたナ~・・・。
(中学時代、ブラスバンド部のトランペットで行進曲ばかり吹いていたこと、また同時代に銀座通りで”アメリカ海兵隊バンド”の演奏しながらの行進そしてフランス軍楽隊”ギャルド・レピュブリケーヌ管弦楽団”の演奏会(新宿厚生年金会館)で感激したことも思い出した!・・・また大昔しの話をしてしまった!)
午前中は梅雨前線の影響からか雲が掛かっていたが午後からは梅雨が明けたように強い太陽が照り付けた。
午後写材を探しに庭に出てみるとフランスの雑草と言われている?”アップルミント”の花が咲いていた。
自宅の庭の雑草?の半分は”アップルミント”のような気がするが虫よけのために抜かずにそのままにしている・・・。
おまけ
そのアップルミントの近くのバラの枝にトンボが・・・。
トンボとは関係ないが1962年の今日、日本初の国産旅客機YS-11(ワイエス・いちいち)が完成した日で~す。
小雨が上がり庭から外に出てみると”キョウチクトウ”が今が盛りと可愛い花をつけて咲いていた。
木に毒があるためか花言葉は「危険」、「注意」とか。
花のような素敵な花言葉を付けてあげれば・・・なんて思いながら一枚パチリ。
今日の”わたしの城下町”では小雨が降ったり止んだりの天気だった。
昨日と同じ自宅前に出てみると水量は変わらないが水の速さは少し遅くなっているように見えた。
おまけ ヒメヒオウギズイセン”
昨日ブログに花の名前が分からないと書いたところ以前住んでいた静岡県の知人から”ヒメヒオウギ水仙”であると教えていただいた。
昔からこの庭に自生して雑草扱いにしていたが”ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)と立派な名前がついているので明日からはチャンと手入れをしてあげようと思っている・・・??
T.Mさん、ありがとうございました。
おまけ
ローカル放送で今日は津和野の森鷗外の命日と言っていた。
曾祖父後藤貞行は東京美術学校で美術解剖学を教えていたが後任が森鷗外であると医学博士亀谷了著「後藤良回顧録」に書いてあったのを思い出した。