my日本で紹介されていました。とても感動したので、紹介します。
yukakichiさんの日記。
タイトル『人間を矮小化してはならぬー 自衛官の誇りー』
転載↓
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イタリアでの豪華客船が座礁した後、ニュースになっている船長だけでなく、クルーの多くが乗客を置いて先に救命ボートに乗っていた(このニュース、私は以前、仕事でイタリアに行った際に本当に実感していましたので、今回もどうせ・・・と思っていました。あの国には二度と観光で行くことはないでしょう) 中国(ウイグル自治区)での1000人を超える誘拐や障害者が5000円前後で人身売買をされているといったニュースを最近、一気に目にして・・・
生まれて来たのが、この奇跡的な国日本で良かったと・・・本気で思いました。イタリアの客船のニュースを聞いて、思い出したのが、1999年に自衛隊機が狭山市付近で墜落した際のニュースです。
市街地で自衛隊の飛行機が墜落しかかり、自分たちが助かることを捨てた上で、市街地以外の場所(河川敷)に墜落し、飛行機を操縦していた自衛官2人とも亡くなったというものだったと思うのですが・・・
その年の卒業式に高校の校長先生が卒業式で生徒に向かっておっしゃられた講和を転載させていただきます。教育勅語の教えに通じるものがあります。
人間を矮小化してはならぬ
校長 小 川 義 男
先日、狭山市の柏原地区に自衛隊の練習用ジェット機が墜落しました。たまたま私は、寺田先生と共に、あの近くを走っていましたので、立ち寄ることにしました。すでに付近は閉鎖されていて、近くまで行くことはできませんでしたが、それほど遠くないあたりに、白煙の立ち上るのが見えました。
見上げると、どのような状態であったものか、高圧線がかなり広範囲にわたって切断されています。高圧線は、あの太くて丈夫な電線ですから、切れるときはぷつんと切れそうなものですが、多数の細い線の集まりからできているらしく、ぼさぼさに切れています。何カ所にもわたって、長くぼさぼさになった高圧線が鉄塔からぶら下がっている様は、まさに鬼気迫るものがありました。
聞くと、操縦していた二人は助からなかったそうです。二佐と三佐と言いますから、相当地位の高いパイロットだと言えます。二人とも脱出を試みたのですが、高度が足りなく、パラシュート半開きの状態で地面に激突し命を失った模様です。
以前、現在防衛大学の学生である本校の卒業生が、防大合格後航空コースを選ぶというのを聞いて、私がとめたことがあります。「あんな危ないものに乗るな」と。彼の答えはこうでした。「先生、戦闘機は旅客機より安全なのです。万一の場合脱出装置が付いており、座席ごと空中に打ち出されるのですから」と。
その安全な戦闘機に乗りながら、この二人の高級将校は、何故死ななくてはならなかったのでしょうか。それは、彼らが十分な高度での脱出を、自ら選ばなかったからです。おそらく、もう百メートル上空で脱出装置を作動させていれば、彼らは確実に自らの命を救うことができたでしょう。47歳と48歳と言いますから、家族に取りかけがえもなく尊い父親であったでしょう。それなのに、何故彼らはあえて死をえらんだのでしょうか。
実は、あの墜落現場である入間川の河川敷は、その近くに家屋や学校が密集している場所なのです。柏原の高級住宅地は、手を伸ばせば届くような近距離ですし、柏原小、中学校、西武文理高等学校もすぐそばです。
百メートル上空で脱出すれば、彼らは確実に助かったでしょうが、その場合残された機体が民家や学校に激突する危険がありました。彼らは、助からないことを覚悟した上で、高圧線にぶつかるような超低空で河川敷に接近しました。そうして、他人に被害が及ばないことが確実になった段階で、万一の可能性に賭けて脱出装置を作動させたのです。
死の瞬間、彼らの脳裏をよぎったものは、家族の顔でしょうか。それとも民家や学校を巻き添えにせずに済んだという安堵感でしょうか。
他人の命と自分の命の二者択一を迫られたとき、迷わず他人を選ぶ、この犠牲的精神の何と崇高なことでしょう。皆さんはどうですか。このような英雄的死を選ぶことができますか。私は、おそらく皆さんも同じコースを選ぶと思います。私も必ずそうするでしょう。実は、人間は、神の手によって、そのように作られているのです。
人間はすべてエゴイストであるというふうに、人間を矮小化、つまり実存以上に小さく、卑しいものに貶めようとする文化が今日専らです。しかし、そうではありません。人間は本来、気高く偉大なものなのです。火災の際の消防士の動きを見てご覧なさい。逃げ遅れている人があると知れば、彼らは自らの危険を忘れて猛火の中に飛び込んでいくではありませんか。母は我が子のために、父は家族の為に命を投げ出して戦います。それが人間の本当の姿なのです。その愛の対象を、家族から友人へ、友人から国家へと拡大していった人を我々は英雄と呼ぶのです。
あのジェット機は、西武文理高等学校の上を飛んで河川敷に飛び込んでいったと、佐藤校長はパイロットの犠牲的精神に感動しつつ語っておられました。
しかし、新聞は、この将校たちの崇高な精神に対して、一言半句のほめ言葉をも発しておりません。彼らは、ただもう自衛隊が、「また、事故を起こした」と騒ぎ立てるばかりなのです。防衛庁長官の言動も我慢がなりません。彼は、事故を陳謝することのみに終始していました。その言葉には、死者に対するいたわりの心が少しもありません。
防衛庁の責任者が陳謝することは、それはもう当然です。国民に対してばかりか、大切な隊員の命をも失ったのですから。しかし、陳謝の折りに、大臣はせめて一言、「以上の通り大変申し訳ないが、隊員が、国民の生命、財産を守るため、自らの命を犠牲にしたことは分かってやって頂きたい。自衛隊に反発を抱かれる方もあるかも知れないが、私に取り彼らは可愛い部下なので、このこと付け加えさせてもらいたい。」くらいのことが言えなかったのでしょうか。隊員は命を捨てて国民を守っているのに、自らの政治生命ばかり大切にする最近の政治家の精神的貧しさが、ここには集中的に表れています。まことに残念なことであると思います。このような政治家、マスメディアが、人間の矮小化をさらに加速し、英雄なき国家、エゴイストのひしめく国家を作り出しているのです。
人は、他人のために尽くすときに最大の生き甲斐を感ずる生き物です。他人のために生きることは、各人にとり、自己実現にほかならないのです。
国家や社会に取り、有用な人物になるために皆さんは学んでいます。そのような人材を育てたいと思うからこそ、私も全力を尽くしているのです。
受検勉強で精神的に参ることもあるでしょうが、これは自分のためではなく、公のためである、そう思ったとき、また新しいエネルギーが湧いてくるのではないでしょうか。受験勉強に燃える三年生に、連帯の握手を!
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転載ここまで。
東日本大震災でも、犠牲的精神をもって、他者を助け、命を落とした人たちがたくさんおられました。避難放送を最後まで津波がくるぎりぎりまで呼びかけ続けた女性、水門を閉じる作業のために避難が遅れた消防団員の方たちなど。
少し前まで、利己主義がもてはやされて、“自分”が第一という風潮が蔓延していた日本。
震災を通して、日本人にこういう崇高な精神が残っていたことに、感動された人も多いとおもいます。
でもね、震災がなくても、自衛隊のみなさんは『たとえ自分の命と引き換えでも・・・』という、常に犠牲的精神で、任務にあたっておられるってこと。この事故はこういうことを教えてくれてる気がします。
小川校長の講話、
>他人の命と自分の命の二者択一を迫られたとき、迷わず他人を選ぶ、この犠牲的精神の何と崇高なことでしょう。皆さんはどうですか。このような英雄的死を選ぶことができますか。
→はい。できます!と自信もって即答できませんが、もしそういう瞬間が訪れたら、大好きな日本に生まれたことに感謝して、日本人として誇りをもてるよう行動したいと思います。
一つ、いっておきたいことがあります。
よく、中東で起こる自爆テロを自己犠牲の英雄という意味で、カミカゼ・・・つまり「特攻」と同じようにとらえる人がいるかもしれません。
自爆テロと特攻は全くちがいます。
なぜなら、自爆テロは自分の命を犠牲にしますが、街中の人が多いところで、爆弾を爆発させ、必ず周りの罪のない人々を巻き込みころします。敵を倒すというより、政情不安、治安悪化を目的にしてることがおおいようです。
日本が戦争末期に行った特攻は、交戦国の兵隊のみを標的にしており、一般人を巻き込んだことはありません。日本軍はそもそも非戦闘員を攻撃をしたことはほとんどありません。逆に日本の非戦闘員が攻撃されたことは原爆のみならず、数え切れないくらい。
自爆テロと特攻を同一視してる人がいたら、認識をあらためていただけたらと思います。
なお、上記の自衛隊機墜落事故の真相はこちらの動画↓をどうぞ!
動画の最後がまた感動します!もう一つの事故の真相とは・・・
国旗の重みシリーズ 英雄編~十三秒後のベイル・アウト~