ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

横山大観の酒

2016-12-02 21:46:44 | 水戸

 本来余り酒の飲めないたちだったそうですが、先生である酒豪の岡倉天心に酒の教育をされて、飲んでは吐き飲んでは吐きを繰り返して、ついに酒の調教に成功したようで、一日一升(晩年でも七合)が普通の生活になったようです。肴はほとんど食べず、小皿の塩辛、このわた、からすみなどほんのわずかなものだけで、酒が食事だったそうです。

 五浦時代、絵を売りに地方を旅したものの、売れずに宿へ帰っても、お金がなくて酒が飲めなかったそうです。ところが夜になると、部屋の前に宿の女性が同情して、他の部屋で飲み残した燗冷ましを熱燗にして二、三本置いてくれたそうで、その人情の厚さに感じ入ったそうです。

 大正4年に日本美術院再興の資金調達のために、横山大観、下村観山、小杉未醒、今村紫紅の4人が五十三次絵巻を描いたそうですが、その取材旅の際には、表具師の銀さんが同行したそうです。大観、観山は飲むとかならずけんかをはじめるのだそうです。未醒、紫紅は仲裁できないということで、その幕引きのために銀さんが必要だったそうです。

 大観の代表作「生々流転」は、関東大震災の時院展に出品されていたそうです。その時、会場にいた大観はケースから絵巻を出して、池之端の家に持ち帰ったそうです。堅山南風がその夜見舞いに行くと、大観は玄関に仁王立ちになり、片手に一升瓶をぶらさげていたそうです

 広島の清酒酔心を生涯の酒とした大観に、酒蔵は無料で樽を贈り続けたそうです。大観もお礼に絵を送り続けたそうです。戦中、鉄道輸送がうまくゆかなくなったとき、蔵元が鉄道大臣に頼みこんでなんとか届けたそうですが、半分は「手数料」になったそうです。主食が減ったと大観は大変歎いたそうです。


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