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水戸の酒の話(24)

2023-10-02 19:42:03 | 水戸

青山一谿
 彰考館総裁になった青山延于(のぶゆき 号は拙斎)の祖、一谿(元禄15-宝暦6)は、田見小路にあった朱舜水を祀った舜水祠堂の堂守となり、そこで定期的な講義をおこなったそうです。学者一族の青山家はその後、写真の(大町36°22'48.1"N 140°28'14.1"Eあたり)の道向かいあたりに住んだようです。青山一谿は酒豪で、客が来ると酒を出して痛飲したそうです。したがって家計はいつも大変だったそうですが、そうしたことにこだわらず、清貧に甘んじていたそうです。

 

水道料
 江戸時代にも水道料はあったそうです。「水道指銭(さしぜに)」といったようですが、安永3年(1774)の資料によると、屋敷持ちは1ヵ月16文で、借家人は3文だったそうですが、外に、造酒屋は1軒につき16文、湯屋、豆腐屋、濁酒屋(濁酒屋は多くつくる者のみ)は8文と、水を多く使う職業には付加分もあったようです。1文は今の30~40円くらいだったようです。写真は、本町にある笠原水道の記念碑(本町36°21'53.7"N 140°29'27.0"Eあたり)です。

 

大津浜事件
 文政7年(1824)、水戸藩領大津浜に鯨漁のイギリス船乗組員12人が食料を求めて上陸するという事件があったそうです。通訳として会沢正志斎が現地に行き、外夷に対する危機感を強め、翌年の「新論」執筆となったそうです。このとき、村役人の指図によってリンゴ50個、ビワ4升、ダイコン50本を束ねたもの10把、サツマイモ32本、ナシ、ネギそれぞれ1籠、米2斗、ニワトリ10羽、酒5升入り1樽が、村人の手で集められて与えられたそうです。船内の病人が壊血病ということで、こうした品々になったようですが、酒まで贈るというのは気がきいているといっていいのでしょうか。写真は本法寺(千波町2367)にある会沢正志斎の墓です。現在墓は、倒れないようにパイプで固定されているようです。

 

豊田芙雄(ふゆ 弘化2年(1845)-昭和16年(1941))
 豊田芙雄は、藤田東湖の妹が母で、彰考館総裁になった豊田天功の子供で、尊攘過激派によって33才で暗殺された豊田小太郎が夫だったそうです。日本での保母第1号になったそうです。東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の教員になったり、水戸に戻って水戸大成女学校の校長になったりもしたそうです。毎晩2合の酒を晩酌していたそうですが、謹厳な性格だったそうですので、しっかりした飲み手だったのでしょう、96才の長寿だったそうです。

 

茨城の地酒ガチャ(いばらき地酒バー 宮町1-1-1)
 水戸駅自由通路にある地酒バーの前に、地酒ガチャがありました。2段あって、上が茨城の地酒、下が常磐線(アクリルキーホルダー)で、見ていると、残念ながら(当たり前ながら)、多くの子供たちは下を選んでいました。私は地酒を選びましたが、写真のような「清酒 友寿」のアクリル製飾り物をゲットしました。全部で15種類あるようで、水戸では吉久保酒造のサーモンデシュがあるようでした。水戸駅南口で行われていた「茨城デスティネーションキャンペーン」会場にも同じガチャがありましたので、地酒バーのガチャもその一環なのでしょう。

水戸の酒の話(23)


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