写真は桂岸寺にある水戸黄門像です。
徳川光圀が若いころ久慈浜(現・日立市)に遊んだとき、鰹漁の舟と一緒に、自身の舟を出したそうです。きっと漁の様子を見たかったのでしょう。このことを聞きつけた付家老・中山風軒(信正)は、海岸に駆けつけ、そこから鉄砲2,3丁を空砲でうったそうです。その音を聞いた光圀は、自分の軽々しい行動を家老が諫めるためにしたことであろうと察して浜に戻り、人を遣わして申し訳をしたそうです。
4つの支藩の藩主を小石川の屋敷に招いて食事をしたときに、松平大学頭(だいがくのかみ 多分、守山藩主)が飯粒を落としたそうです。すると大学頭は、箸をお盆の上に置いて、それを手で拾い、ちょっといただいてから口にしたそうです。それを見た光圀は、「大学殿お出来でござる」とほめたそうです。
光圀が水戸に滞在中、湊御殿(現・ひたちなか市)から自身一騎で夜になっての帰りに、水戸城の門に至り、「明けい明けい」と声を掛けたそうですが、門番はお目付様から預かった門なので、その許可がなけらば明けられないと拒否したそうです。騒ぎを聞きつけたお目付の配下によって門は開けられたそうですが、門番に対しては、かたく心得て勤めるようにとの褒美が下されたそうです。
元禄4年(1691)に江戸・お茶の水に湯島聖堂ができたときに、諸大名は中国の書物を納めたそうですが、光圀だけは、日本紀、続日本紀、続日本後紀、文徳実録、三代実録、古事記、旧事記7書の誤りを正したりして納めたそうです。
松茸が大豊作で、隠居後に住んだ西山荘のある大田村の農民が江戸へ送ったということを聞いた光圀は、それは残念なことだ、それでは値段が下がって皆が損をするだろう。塩水に浸けて保存して後で売ったら利が出たろうにといったそうです。この話では、送った松茸の清算は、売れてから後に行われたということなのでしょうか。