イメージの取り合わせ 中村迷々亭
そもそも川柳の本領は伝統川柳にあると思うが、私のように、単なる伝統川柳にあきたらなくなったものがなにかしら新境地を開拓すべく、いわゆる現代川柳の荒野に足を踏み入れて苦闘しているのが現状ではないだろうか。
先日、札幌川柳社の本社句会に出席した折、席題「雑詠」で三才「地」となった自句について、現代川柳の特徴のひとつ、イメージの取り合わせについて語ってみたい。
雑詠 櫛引麻見選
飢餓の街無声映画が生きている 迷々亭
これは、飢餓の街と無声映画という一見なんの関連もなさそうなイメージの取り合わせである。
席題であるから、その場で作るわけであるが、まず私の愛用している辞典は旺文社発行の「標準国語辞典」昭和45重版発行 定価550円958ページの古いものである。
子ども達が二人使い古して、その後私が捨てもせず便利に使用しているわけである。
近頃は、電子辞書が流行ってこのような旧型の辞書を使っている人はめったに見かけないようであるが、私にはこれ無しで川柳をつくることは出来ないほど重宝なものである。
まずパラパラと捲って「無声映画」という文字に出会う。すぐ「無声映画が生きている」と一応中7下5を作って、さて「無声映画が生きている」に響く上5はないか、また辞書をぺらぺら捲る。「飢餓」という文字に目を止める。すぐ「飢餓の街」という言葉になる。
これは大島洋の「枯れた街」から誘発された発想である。これを上5において「飢餓の街無声映画が生きている」という現代川柳が出来上がる。
飢餓の街は私は見たことはない。曽根綾子とか辺見庸のルポタージュからなんとなくイメージしているだけである。
無声映画、これは子どもの頃に何度か見た記憶があるのでこの両方のイメージが私の中で、なんとなく響いているような気がして一句となしたのである。
これが現代川柳の醍醐味でもあろうか。選者が反応してくれなければ「何じゃこれ」、と前抜きにもならないだろうと思う。
川柳を初めて15年経って、やっと、こんな遊びを楽しことができるようになりましたということだろうか。