「元始紫式部は川柳人だった」という、テーマで綴ったらこのブログも格調高くなるかな??やってみよう!!
滋賀県の瀬田の唐橋抜けて、源氏物語を構想したと言い伝えられる「花の石山寺」に立った、若い時の身の震えはきっと、紫式部への淡いあこがれだったのかも知れません。
一千年もの時を超え、日本の女流文学者の金字塔に立った・与謝野晶子・円地文子・瀬戸内寂聴・俵万智さんなどもあなたのことを書いています。
わたしは、たいしてあなたのことはわかりませんが・・なぜ?あなたがこんなに長い物語を作って40歳(はっきりわからない)そこそこで死んでしまったのか・・そこはかとなく寂しい気がします。
秋冬は十二単衣に身を包み、夏の暑い盛りも5・6枚も着物を重ね(夏の京都だよー)
髪は長々と伸ばし・・お手入れ大変!!コピーもない時代に和紙に草書体で間違わずに一字一字を書き込んで行く、電気もない薄暗い蜀台で・・月の明かり、星の明かりの下で綴ったのでありましょう長編大作。
生みの母に早く死なれ、たった一人の姉も若き頃に失い、学者の血を受け継ぐ才女としての躾を受け、20歳も年上のおじさんからしつこく求愛され、挙句の果て子供をひとり残してすぐ、他界され。たったひとりのこどもさえ置いて、一条天皇の中宮彰子に仕えた。
物書きよりも、先に和歌の歌人であったことが・・ちょっとキーポイント。
源氏物語には800句近い和歌が詠まれているという。登場人物は400名と書いてあった。
光の源氏の君が・・続々差し出す恋歌(贈答歌)に続々不特定多数の女性の返歌。
源氏もいつまでも若くはない・・不特定多数の女性も年老いていく。
そこを、その本人になり切って和歌を作るのだ。(頭いたーい・・五七五の句もろくに作れない・・わが身は、花と散るらん、ひよこが生まれる前からコケコッコーです。)
人物描写も然ることながら、ひとりひとりの年齢体験も重ね合わせて、その人になって句を作る作業の方が、物語の展開よりもはるかに時間がかかることは歌人ならわかるはず。
万葉集も、古今和歌集も、小説も、短歌も、俳句も、元を正せば・・言葉の表現です。
紫式部が本当に伝えたかったのは、男と女の物語だったのでしょうか?
どこまで、自分を表現できるかではなかったのでしょうか?
たくさんの身にかかる死を見つめ、無力な自分を奮い立たせた自分の証の結果が
「源氏物語」だとしたら・・。
男と女のモチーフが後世まで残せることくらいは、万葉集で実証済み。
本人もわかっていたはず。
和歌の勉強の方が略歴長いのですから。
良く、空蝉は式部を投影したと言われますが・・。
これから、まだまだいろんな解釈がなされて行くでしょうね・・抑圧された宮中の中で彼女の女性としての精神解放の書であることだけは、まちがいないでしょうね。
和歌で疑似体験をしまくった・・式部さん。「元始あなたは川柳人であった」
アカデミックな人たちに石投げられそうですが・・それは安心!読まれませんから。
<小倉百人一首>
めぐりあいて見しやそれともわかぬまに 雲かくれにし夜半の月影 紫式部