現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

辻潤のダダイスム

2019-05-13 00:34:43 | 社会問題

私のブログの検索状況を見ると、結構昔の記事も読まれています。

今日は、この記事が読まれていましたので、再掲します。

 

辻潤の生き方を見ていると、自分のことのように思え
そら怖ろしくなる。私は 酒に溺れないだけ マシだが、
性格は似ている。

辻潤は、知らずのうちに「ダダイスム」の教祖となり、
信奉者も集まるようになった。

辻は、大杉栄ら共産革命家に 同情はしていたが、
みずから行動することは無かった。警察に捉えられ、
「貴様は共産主義か!」と問われた時、「はい、
降参主義です」と答える駄洒落(だじゃれ)を持ち
合わせていた。

「無為無作、無所得、酔生夢死」を標榜し、隠遁者か
廃人のように思われているが、辻の「後援会」には
佐藤春夫・武者小路実篤・北原白秋・谷崎潤一郎
などが名を連ねているのだ。多くの人が、彼の生活を
支えていた。

辻が精神病院に入院していた時のエピソード。
辻が 日向ぼっこをしていると、 雀が飛んできて
辻の肩に止まったという。釈迦にも同種の話が
あり、狂人や聖者が、完全に無私、無我の境涯に
なれば、小鳥たちも安心して近づいてくるという。

私も無心で尺八を吹いていたとき、シジュウカラが
部屋の中に飛びこんできて 私の肩に止まったことが
ある。


幸徳秋水と管野スガ

2019-05-13 00:33:55 | 社会問題

大杉栄と伊藤野枝が殺害されたのは、大正12年(1923)。その12年前の
明治44年(1911)、幸徳秋水と管野須賀子が殺されている。今から
100年前のことだ。この2組のカップルの罪状は、無政府主義、
社会主義、女性解放、自由恋愛。そんなことで死罪になる異様な
時代だった。

幸徳秋水らの直接の罪状は「天皇暗殺謀議」だが、オウムのように、
真剣に計画実行しようとしていたわけではない。しかし、それを
口実に、社会主義者たちが根絶やしにされたのだった。

大杉栄と伊藤野枝の関係と同じく、幸徳秋水と管野須賀子の男女
関係もすさまじい。伊藤野枝が夫「辻 潤」を捨てて大杉のもとに
走ったように、管野須賀子は、夫「荒畑寒村」が獄中にいる間に、
離縁状を送りつけて幸徳秋水のもとへ走った。大杉には妻と愛人が
いたように、幸徳秋水にも妻千代子がいた。秋水は妻と離婚して
須賀子と同棲する。

大杉は愛人「神近市子」に刺されるが、幸徳秋水と須賀子は、
荒畑寒村に命を狙われた。

このような一連の「不倫スキャンダル」は、世間の好奇と揶揄、
指弾の的になる。須賀子の前半生の男遍歴は「淫婦、姦婦」と
中傷されるほどすさまじい。

須賀子の夫だった「荒畑寒村」は、昭和56年(1981)に 93歳で
没した。瀬戸内寂聴は「寒村」にも会って取材している。



口にくわえた筆で絵を描く「星野富弘」氏に学ぶ

2019-05-11 21:56:40 | 虚無僧日記

今日一番読まれた記事が 2017.2.17 に書かれた次の記事です。再掲します。



『花の詩画集』の「星野富弘」さん。1946年生まれですから、
終戦の翌年、昭和21年生まれ。私より2歳上。団塊の世代。

1970年に高崎市立倉賀野中学校に体育教師として着任。
その2ヵ月後に、宙返りの模範演技で落下し、頸髄を損傷。
肩から下、手足の機能が完全に麻痺してしまう。

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長い入院生活中、
生まれてこなければよかった、
生きる希望なんてない、
死にたいと何度も思いました。

眠っている間に
心臓が止まってくれないかな、
死ねないかな、と。


神様がたった一度だけ
この腕を動かしてくださるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう。

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(この言葉には、泣かされました)

そんな彼に生きる希望と喜びを与えてくれたのは、
同室に入院していた中学生。彼が退院していくとき、
「サインをしてください」と。「星野」氏は、手足が
動かない体。「その私に、何を書けというのか」と、
一瞬戸惑ったが、口に筆を咥えて、その子の母親が
差し出した帽子に、たどたどしい字でサインをした。
その子も母親も感動して喜んでくれた。たどたどしい
字でも喜んでくれる人がいる。人が喜んでくれること
が生きる力になる。人は人の喜びのために生かされている。
と感じ、生きる気力が湧いてきた。

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いのちが一番大切だと思っていたころ
 生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日
 生きるのが嬉しかった


「人生が二度あれば」とは、
今の人生を諦めてしまうから
出てくる言葉です。
今を精一杯生きられないで、
どうして次の人生を
しっかり生きられるでしょう。


はじめは苦しくてつらいことが、
自分を成長させてくれます。
とにかく前に
一歩を踏み出してみる。
そうすれば、
花咲く時は必ずやってきます。


過去の苦しみが、
後になって楽しく思い出せるように
人の心には
仕掛けがしてあるようです。


辛いという字がある
もう少しで
幸せになれそうな字である
辛いという字は幸せという字になる一歩手前

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そんな言葉が、絵手紙のように、草花の絵の上に
添えられているのです。

9年間におよぶ入院生活の間に、口にくわえた筆で水彩画、
ペン画を描き始め、後に詩を添えるようになる。水彩画、
ペン画に詩を添えた『花の詩画集』が、世界の人に感動と
勇気を与えています。

私たちは、幸せになろうという努力を怠けていませんか?


「雪おんな」アクセス1000件超え

2019-05-10 09:05:44 | 虚無僧日記

https://youtu.be/UnOECpZrW0k

https://youtu.be/xNYvidpFhJk

https://youtu.be/SUXo4I3Yr54

 

稲熊君にアップしていただいた「雪おんな」が 3週間で ついに

1000件を超えました。一日50件のペースで増えています。

詩吟の沢田房詠(千鶴香)さんの知名度の高さゆえでしょうか。

 

一方、私の 尺八独奏「瞳」は ようやく200件。一週間後に

飯吉さんにアップしていただいた 堀井小二朗師の 「瞳」は

300件超に。この違いは何なんでしょう。

このブログを見られている方、ぜひ尺八も聞いてください。

他の曲は

「牧原一路 手向、下り葉、竹打 鶴、風華、風紋」他で検索してください。

稲熊典無 尺八奏者 でアップした一覧が見れます。

 


二つの興国寺

2019-05-09 19:55:30 | 虚無僧日記

興国寺といえば、紀州(和歌山県)由良の興国寺。

こちらは、富士の裾野を領地とする鎌倉御家人の葛山景倫によって開基された。

葛山景倫は源実朝の命を受けて宋に渡るため博多まで行ったところで

実朝の訃報を知り、引き返し、実朝の菩提を弔うべく高野山に登って出家した。

北条政子は、葛山景倫の忠心を讃え、紀州由良の地を葛山に与えた。

 

葛山景倫は高野山で知り合った心地覚心に、自分の代わりに渡宋を勧め、資金援助した。

心地覚心が帰国すると、安貞元年(1227年)葛山景倫は由良の地に西方寺を建てて、

心地覚心を開山に迎えた。葛山氏が建てた寺は、西方浄土を夢みていた実朝の願いを

受けて「西方寺」と名付けられたのだった。

その「西方寺」が「興国寺」となるのは、南北朝時代、南朝の二代後村上天皇の御代。

南朝の元号である「興国元年(1340)」年と考えられる。創建から100年以上立ち

西方寺が南朝方に加担したためである。

北条早雲(正しくは伊勢新九郎)が駿河に入り甥の龍王丸を補佐して今川家当主にし、

富士郡下方を与えられたのは 長享元年(1487)。その城が「興国寺城」というのだが

それは江戸時代になっての創作話にすぎない。

なぜ、城の名前が「興国寺城」というのかも解せない。

沼津の興国寺については、その創建は全く不明。

推測をすれば、葛山氏の一族の者が、由良の興国寺の分寺として建てたのか。

 

北条早雲(伊勢新九郎)は、この地の豪族葛山氏の娘を妻に迎えている。

その子が北条幻庵である。幻庵は母方の葛山姓を名乗ってもいた。

幻庵は尺八(一節切)の名手で、小田原北条家の家臣は大かた尺八を吹けた。

その小田原北条家が秀吉によって滅ぼされ、最後の当主北条氏直は高野山に幽閉された。

高野山には「小田原別所」と呼ぶ所がある。

氏直は翌年には死去し、付き従っていた家臣300名は浪人となり諸国に散らばっていった。

 

ここからは私の推論だが、その家臣の一部が向かった先が、葛山氏ゆかりの紀州由良の

興国寺ではなかったか。興国寺は当時、信長の命を受けた秀吉によって破壊され

廃墟となっていた。その後浅野氏が入封した際、興国寺の廃墟には虚無僧が住んでいた

との記録がある。

紀州由良の興国寺の開山法燈国師心地覚心が、普化宗の日本開祖とされたのは

虚無僧となった北条家の遺臣たちによって作られたのではないか、というのが

私の推論である。

 

 


二人の幻庵

2019-05-09 19:54:53 | 戦国武将と城

ネットで「毛利輝元が、関が原の後隠居し、「幻庵宗瑞」と号した
と知ってビックリ。

「幻庵」といえば、北条早雲の第三子で、北条五代にわたって生きた                                       「北条幻庵」。

「宗瑞」は、北条早雲の法号。「宗」の字は大徳寺派の名。
北条早雲の菩提寺「早雲寺」の開基は大徳寺から招いている。

毛利元就がなぜ、北条早雲の「宗瑞」と、その子の北条幻庵の号を
付けたのか。偶然ではないような気がする。ちなみに生歿年は

北条早雲宗瑞 1432 -  1519年歿
北条長綱幻庵 1500年頃?-1589
毛利幻庵宗瑞 1553 -  1625  

毛利輝元にとって北条早雲は 100年も前の人。北条幻庵は
半世紀ほど前。接点はないようだ。

大徳寺で調べてみると、大徳寺の塔頭(たっちゅう=子院)のひとつ
黄梅院が毛利氏の菩提寺となっていた。黄梅院は、信長の父信秀が
開基。信長は最初ここで密葬された。秀吉の死後、小早川隆景が
改築し、毛利家の菩提寺となった。しかし、織田信秀・小早川隆景・
毛利元就・蒲生氏郷の墓はあるが、輝元の墓は無い。

秀吉の小田原北条攻めの際、毛利輝元は京都の守護に当たって
いたから、直接は戦いには参加していない。

はてさて、毛利輝元と北条氏の秘密の接点、どなたかご存知の方
教えてたもれ、と以前書いたところ、お二人から回答いただいた。

一人は「全く関係ありません。単なる偶然の一致」。もう一人は

「関ケ原で領地を減封され、徳川への恨みから、北条氏に思いを寄せたのでは」と。



5/5 名古屋城古武道大会

2019-05-06 14:28:30 | 虚無僧日記

5/5 毎年恒例の名古屋城古武道大会でお会いした安達梁風様の

FBから転載させていただきました。

 

名古屋城古武道大会に合吟で参加してきました。野外なので、

思い切り大きな声で4題を合吟しました。 ピクニック気分で食事中に、

前に座っておられた尺八の先生がスマホで、虚無僧姿で尺八を吹きながら

歩いている写真が見えたので、虚無僧で有名な先生があるということを思い出して、

お話させてもらいました。牧原一路先生だそうです。

 https://blog.goo.ne.jp/goo3360_february

そうしたらアンサンブルリベルタの山田典山先生とも友達で、

長尺八と短尺八の写真を見せてもらったり、関西吟詩の沢田さんとも友達で

一緒に能楽堂で共演されたそうで、youtubeにも載ってました。そういえば

沢田千鶴香さんが昔、名古屋の虚無僧の話を書いてたのを思い出しました。

別世界の話かと思っていたので、意外な繋がりで驚きました。

 https://www.youtube.com/watch?v=SUXo4I3Yr54 https://www.youtube.com/watch?v=UnOECpZrW0k https://www.youtube.com/watch?v=xNYvidpFhJk&t=99s

私も、youtubeに載せてるよ。自分で撮影して、自分で編集したと教えたら、

会津出身だから白虎隊をよく見てるそうです。

 https://www.youtube.com/watch?v=7rCbRM-Dv6A https://www.youtube.com/watch?v=gAVV85y5pPk https://www.youtube.com/watch?v=xsOxPDM9hHQ

それで、Facebookの友達にしてもらいました。 食事を終わってから、

牧原一路先生が尺八を吹いておられたので、詩吟をやらせてもらいました。

明日、研修会があるから「笈の小文」。打ち合わせしてないのに、途中で

陽転してからも上手に吹いてもらえました。私も、喜捨させてもらいました。

 10連休、名古屋城のやぐらを見てきたり、久しぶりに1万歩歩き、大きな声を出し、

ビールも飲み放題で、くたくたに疲れました。(singakufan-a)


コンピュータ尺八

2019-05-04 20:55:38 | 筝尺八演奏家

尺八二重奏曲「断層」(堀井小二朗)/堀井小二朗・宮田耕八朗  

https://youtu.be/yk-vag_QzAE

 私の師、堀井小二朗師も 60代の時、次々と若手尺八家が現われ、

時代にとり残されていく寂しさと苛立ちを感じていた。

 
堀井小二朗師は、昭和30年代に「尺八は尺八家に
よって滅びる。音程もリズムもいい加減な尺八では、
家族からも嫌われて当然。コンピュータのように、
ピッチもリズムも正確な尺八家が出てこないと、
尺八界に明日は無い」と言っていた。
 
その後、横山勝也、山本邦山、青木鈴慕の三本会、
7孔尺八の宮田耕八朗、村岡実等若手が台頭してきた。
その時、堀井師は、
「出てきちゃったんですよね、コンピュータ尺八が。
でも出てきてみれば、やたらテクニックを競うばかりで
心が無い。コンピュータ尺八には“魂”が無かった」と
一人つぶやいた。
 
昭和39年結成され一世を風靡した三本会や日本音楽集団の
活動も、堀井小二朗の目から見れば、「あんなもの
芸術じゃない」だった。
 
昭和39年、NHK/FMで「現代の邦楽」という番組が始まり、
NHKの委嘱で作曲され放送されたのが「竹の韻(ひびき)」。
若き青木静夫、宮田耕八朗、村岡実が参加、その中で第二楽章で
横山勝也氏が海童道曲の奏法を披歴し注目を浴びた。
この曲こそ尺八ブームの火付け役となった。
 
そして、昭和49年だったか、NHKから再び、堀井氏に放送依頼がきた。
その時の曲が「断層」。まさに若い世代との断層を曲にした。
堀井師にとっては、くだらないコンピュータ尺八に対する当てつけである。
そんなものなら、自分だって吹けると、ダブルタンギング、半音ずつの
上がり下がり、3オクターブを駆使し、まだまだ若い者(宮田君)には
負けはせぬという意地を見せた演奏だった。
 
そして、これを最後に、現代音楽ブームは下火となり、
NHKの「現代の日本音楽」という番組も終わった。
 
堀井小二朗師は、NHK/FM「現代の邦楽」(後に「現代の日本音楽」に
改め)の最初と最後を飾ったのである。

福沢諭吉の孫 堀井小二朗

2019-05-04 20:52:59 | 筝尺八演奏家

https://youtu.be/EDCpm2FFC5s

 

 

私の尺八の師、堀井小二朗は福沢諭吉の孫です。
 福沢諭吉の次男「捨次郎」の妾腹の子ですが、
福沢諭吉の孫の中で、最も諭吉にそっくりである。
母の姓の堀井小次郎が本名。尺八家としての名は
「堀井小二朗」。

京都に生まれ育ったが、父捨次郎の招きで慶応に
入り、大田区池上に広い土地と家を分与されていた。
明治生命に勤めたことがあったが、戦後ずっと
尺八家として通した。しかし、尺八で食べていく
のは、大変だったようだ。
昭和30年代、映画「二十四の瞳」や「宮本武蔵」
などの音楽を担当し、福田蘭童とともに、尺八界に
新境地を開いた。昭和39年NHK委嘱で、山川直春
との共作で『竹の韻(ひびき)』を作曲、芸術祭で
文部大臣賞に輝いた。この演奏に関わったのが、
横山勝也、青木鈴慕、宮田耕八朗、村岡実等、後の
尺八界をしょって立つ面々。指揮は杵屋正邦だった。


「雪おんな」アクセス500件超

2019-05-04 16:12:14 | 虚無僧日記

吟と語りの「雪おんな」が YouTubeにアップして2週間で

アクセス数 500件 を超えました。

詩吟と語りは このほど 全国大会で日本一となり、少壮吟士と

なった沢田房詠(千鶴香)。

構成、企画は 姫ローズ代表の 林鈴花

実は、姫ローズは わが 一路会 から 女性だけ分離して

林鈴花が 立ち上げたグループ。

一昨年4月 能楽堂の公演を前にして 代表の林鈴花が

クモ膜下出血で 倒れ、意識不明となり、急遽 私一路が

林鈴花の琴の代演を務めました。ぜひ聞いてください。 

 

 

https://youtu.be/xNYvidpFhJk

 

https://youtu.be/SUXo4I3Yr54