現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

田宮虎彦 『足摺岬』

2020-09-12 21:57:19 | 虚無僧日記

足摺岬にて

「田宮虎彦」と「寺田寅彦」どうやら勘違いしていた私。

田宮 虎彦は 1911年~1988年 昭和初期の小説家。

寺田 寅彦は 1878年~1935年 物理学者で随筆家 

二人とも高知県に関係ある。二人とも東京生まれだが 父親が高知県出身。

短編『足摺岬』は 田宮虎彦でした。書かれたのは戦後まもない昭和24年。

自殺願望の東大生が足摺岬に向かう。

「その時、私は自殺しようとしていた…何となく死にたかった…身体も弱かったし、金もなかった。大学を出たところで むなしい人生しか残されていないことが、既にのぞき見ていた世の中から私には はっきりわかっているように思えていた」。

 

敗戦の虚脱感からか? 私には 戦後の復興の槌音が響き、明るい未来が予言されていた時代と思われるが。 

さて、死に場所を求めて、足摺岬までやって来た青年は、結局死ねず、宿に戻る。

そこで、持病が再発して寝込み、宿で出会った人々の看病を受けることに。

遍路の老人は、「生きることは辛いものじゃが、生きておる方が なんぼ よいことか」と諭す。宿の人たちは 青年が自殺志望であることを 見抜いていた。

宿の娘の八重さんも。くったくのない明るい性格の八重さんに 青年は心癒され自殺をやめ、東京に帰る。

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地図を見ただけでも、いかにも遠いということは分かっていた。。。<br />それにしても、そこは本当に遠かった。<br />最果ての地に行くって、こんな感じなのかも。<br /><br />四万十川や沈下橋や中村の町を歩いた時には、まさかその後、さらに果てしない道のりが続くなんて思いもしなかったのですが。。。<br /><br />足摺岬といえば、田宮虎彦の小説ぐらいしかイメージのない私ですが、それが恐ろしく暗いのです。 <br /><br />重たく垂れこめた雨雲と、果てしない怒濤の荒海との見境もつかぬ遠い涯から、荒波のうねりが幾十条となくけもののようにおしよせて来ていた。そのうねりの白い波がしらだけが真暗い海の上にかすかに光ってみえた。それはうねりの底からまき上り、どうとくずれおち、吼えたてる海鳴りをどよませながら、深い崖の底に噛みついては幾十間とわからぬ飛沫となって砕け散った。にぶい地ひびきがそのたびに木だまのように尾をひいて供鳴りを呼んでいた。<br /><br />  ~ 田宮虎彦  「足摺岬」より

 三年後、八重さんは 男と結婚し、東京で暮らすようになる。八重の結婚は、幸せではなかった。路地奥の家に住んで、貧困の中、夫からうつされた胸の病で死ぬ。

「つややかな若さにみなぎりあふれていた陽灼けした肌」の、あの八重が死ぬのである。青年に自殺を思いとどまらせたあの八重さんには、幸せになる権利があるのではなかったのか・・・・」。それがこの小説のエンディング。

 

昭和29年『足摺岬』が映画化される。こちらは 新藤兼人によって脚色されかなり内容が異なる。青年も八重さんも東京で知り合う。八重さんは、弟が泥棒の嫌疑をかけられて、警察で拷問を受け自殺するという悲劇に見舞われ、故郷の足摺岬に帰っていく。青年も人生に絶望し、八重さんを追って足摺岬に向かう。という筋立て。

たぶん、この映画によってであろう。足摺岬は 自殺の名所として有名になり、自殺者が後を断たなかったそうな。

田宮虎彦が『足摺岬』で書いたことは 自殺を思いとどまる話だったのにである。

ついでに、田宮虎彦は 足摺岬には 行ったことがなかったとか。小説では 暗く重苦しい、恐怖の断崖絶壁だが、実際の 足摺岬は 南国の日差しと潮風に乗って実に明るい岬だった。

 

その田宮虎彦氏だが、 1998年、脳梗塞で倒れ、右半身不随になり、マンション11階から投身自殺する。享年77歳



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