現代の虚無僧一路の日記

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信康と築山殿は信長が殺せと命じたのか

2021-02-01 20:45:45 | テレビ・映画・芸能人

NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、家康が信長の命によって、長男信康と正室築山殿を殺したことになっている。家康はそのことで信長に恨みを抱いていたと。一般にもそのように言われてきたが、どうやら事実は違うようだ。

結論からいえば、信長は殺せとは命じていない。処置は家康に任せるとのことで、家康自身の判断で二人を殺害した。

 

家康の正室瀬名?は、関口氏の娘で母は今川義元の妹?。家康が駿府の今川義元の下に人質となっていた時に結婚した。

ところが、永禄3年(1560年桶狭間の戦いで、今川義元が討たれ、元康(のちの家康)は松平の本城岡崎に帰還することとなった。永禄5年(1562年)家康が織田信長と同盟を結んだ事で今川氏真の怒りを買い、瀬名の父母は共に自害した。

瀬名は、石川数正の尽力で、駿府から長男信康亀姫を連れて岡崎に移った。しかし、瀬名は岡崎城内には入れられず、城外の築山に居住させられた。家康としては信長の手前、今川の血筋の正室とは離縁せざるを得なかったであろう。つまり瀬名は幽閉状態で、その場所が「築山」なので「築山殿」と呼ばれた。

永禄10年(1567年)息子の信康と織田信長の長女・徳姫(五徳)が9歳同士で結婚する

元亀元年(1570年)家康は浜松に移り、信康が嫡子として岡崎城主となった際に、その生母として岡崎城に入る。

つまり、今川義元の血筋の築山殿と信長の娘徳姫が同居することになった。これでは、嫁姑以上の険悪な関係になることは目に見えていた。

 

信康との間には女児が二人生まれたが、男児が生まれぬことで築山殿は、旧武田の家臣の娘を信康の側室にあてがったことなどから徳姫と信康の関係は冷え切ってきた。

信長も娘の徳姫を案じて、鷹狩りと称して岡崎を訪れている。これは大河ドラマ『麒麟がくる』でも語られていた。「その時の徳川の家臣たちの自分に向ける眼差しが険しかった」と信長が語るが、その記録はない。

その後 徳姫は家臣の酒井忠次に「12カ条の手紙」を託し、信長に届けさせる

その手紙には「夫・信康とは不仲である」「夫信康はささいなことで家臣や僧侶を殺し、暴君である」「築山殿は従医と不義密通している」「築山殿は武田勝頼と内通している」などと書かれていた。

その内容を 信長は酒井忠次に問いただしたが、酒井は否定はしなかった。そこで信長は、酒井に「家康殿の処分に任せる」とは云ったが、「殺せ」とは命じてはいなかった。

長篠の合戦で信康は手柄を立て増長し、その言動が日増しに強くなって、徳川家臣の中には信康に付く者も増え、家康としては困り果てていた。

そして、家康は築山殿と信康が武田と内通し謀反を企てていると判断し、二人を殺すことにした。

ここで思い出すのが、八切止夫の「家康替え玉説」である。松平元康(後の家康)は桶狭間で戦死した。松平の家臣団としては、駿府にいる元康の遺児竹千代(信康)を当主として迎えるまで、なんとしても元康の死を隠しおおせたい。そこで元康によく似た男を替え玉にして岡崎城を奪還した。

そのまま今川の属国になっていても、独立は果たせたであろうに、替え玉元康は即刻 織田に寝返った。これも謎。

松平家臣団はなんとか駿府の竹千代を取り返したいと願うものの、替え玉の元康には一向にその気がない。そこで石川数正が人質交換で竹千代(信康)とその母を取り返してくる。

普通なら、そこで夫婦、父子の劇的な涙の対面になるはずだが、元康は妻に会おうとはせず、岡崎城外に留め置く。幽閉した土地の名で「築山殿」と呼ばれたが、実は元(家)康の正室の名前は分かっていない。これも謎。その築山殿については当時の史料では「(家)康の正室(妻)」ではなく「信康の母」と記録されている。その後元(家)康は岡崎を信康築山殿に明け渡して浜松に移る。

それで、松平家中は、正当の信康を立てて御家再興を図ろうとする家臣と、今は才覚ある替え玉元(家)康に従った方が得と考える派と分裂、対立があった。

それで、替え玉元(家)康は、信康とその母を成敗した。石川数正は後に徳川を出奔して秀吉に仕えている。

そして最大の謎

なぜ「徳川」と改姓したのか。

江戸時代を通じて、松平の本家である太郎左衛門家を始め、形平、大給、桜井などの松平16家はさして優遇されなかった。本家の太郎左衛門家はわずか500石に止め置かれた。それは家康が松平の血を引いていない替え玉であったから。

これで、家康の様々な謎がイッキに解決できるのである。

 

 


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