現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

山伏(修験道)と虚無僧の対比

2016-12-21 22:10:20 | 虚無僧日記

山伏(修験道)は、日本古来の山岳信仰に神道、仏教(密教)、道教などが

ミックスされた民間信仰として地域ごとに浸透してきた。

江戸時代のはじめ、熊野を中心とする天台系(本山派)と、金峯山を

中心とする真言系(当山派)で対立が起こり、江戸幕府は、両派の調停

として、慶長18年(1613)「修験道法度」を定め、山伏は真言宗系の

当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした。

虚無僧の「慶長の掟書」は、虚無僧達が捏造したものだが、

山伏(修験道)については、きちんと「法度(はっと)」が出された。

これにより、山伏は真言宗か天台宗の一派として公認されたことになる。

しかし、虚無僧同様、山伏にも いかがわしい加持祈祷や占いで

荒稼ぎする者も出、民間から毛嫌いされるようになる。それで

明治政府も、廃仏稀釈の一環として虚無僧と山伏に廃止令を出した。

普化宗の廃止は明治4年(1871)。修験道は翌5年(1872)に太政官

第273号「修験道廃止令」として出された。しかしその内容は

江戸幕府同様、「修験道を廃止し、本山派修験・羽黒修験は天台宗に、

当山派修験は真言宗に所属せよ」というもので、山伏は天台、真言

どちらかの僧侶となれば身分を保証するというものだった。

しかし追い打ちをかけて「狐憑きを落すような祈禱や口寄せのような

行為を一切禁止する」「吉凶占い、加持祈祷などを行った者は、

拘留または科料に処す」。「そのような行為を行う者がいたら

訴えるように」とまで通達や法令が出され、山伏としての収入源は

断たれることになる。

これで 全国に200カ寺以上あった修験道の寺は半数が打ち壊され、

18万人もいた山伏は壊滅姿したのだが・・・・。

山伏による病気平癒の祈祷などはできなくなっても、純粋に山に登って

修行するという「行」は残された。

そして戦後の信教の自由で、山伏は「修験宗」として宗教法人登記される。

現在は、「聖護院」を本山とする「本山修験宗」、醍醐寺を本山とする

「真言宗醍醐寺派」。これに天台系の金峯山金剛峯寺を本山とする

「修験本宗」の三派。その他に 羽三山、日光ニ荒山など、地方単立の

山伏の組織がある。

山伏と虚無僧は 在家仏教という点では似たもの同士だが、山伏は

皇室との結び付きがあったこと、聖護院や醍醐寺三宝院、三井寺等、

由緒格式ある寺院を本山としてきた。そして山伏は明治初年18万人。

現在でも 1~2万人居るとされる。虚無僧は江戸時代でも数百人。

そして現代では 百人ほど。数でも圧倒的な差がある。

 

 


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