「広島も長崎も、原爆投下の日時は予告されており、軍の首脳部は知っていた」という。
原爆投下の前日に「(西部方面)第二総軍」の幹部クラスの会合が行われていた。
畑俊六総司令官以下、若松只一、岡崎精三郎の両参謀、太宰博邦特高警察課長、さらに、高野源進広島県知事といった最上級幹部クラスは生き残っているのだ。
高野知事は、前夜遅くまで畑俊六司令官と酒を飲み交わしておりながら、翌朝8時15分の原爆投下の時間には なんと福山に居た。昼間の空襲を避けて、夜に移動する情勢下にあったとはいえ、なぜ福山に行ったのか、用件ははっきりしていない。
原爆投下の後、10時間かけて広島に帰り、即「復興対策本部」を立ち上げている。
畑司令官自身、原爆の破壊力のすごさは把握できていなかったであろうが、とりあえず、何人かの人に原爆投下の危険を知らせた。
前日の会合に集まったメンバーの中で、畑俊六に楯突いた粟屋広島市長は 家族とともに爆死している。「6日の朝8時までに、西部方面の将校全員、学徒動員の中学生を集めろ」という命令に対して、粟屋広島市長は「今、広島に集めても仕事も無いし、食料もない」と反対した。それに対して畑は「一週間たてばわかる」と答えた。
広島市長が抱いた疑問「なぜ、6日の朝8時までに、大勢の人を集める必要があったのか。それは、
広島は当時市民の大半が疎開してしまって、空っぽだった。「これでは原爆の被害者のサンプルがとれぬ」というアメリカの極秘要請にこたえたものだった。
天皇とアメリカとの間に秘密の通信があり、天皇の承知のもとに、広島・長崎への原爆投下が行われたのだ。
そして「終戦後の天皇の地位保障」を条件に、アメリカの 原爆投下を受諾した。
追記
テニアンとエノラゲイ搭乗員との交信は東京の陸軍・特殊諜報部隊でも傍受していた。
広島の「(西部方面)第二総軍本部」にも当時最新の通信システムが置かれており、インド・デイリーからやテニアンから発せられる通信をすべて傍受していた。その通信所は原爆で吹き飛ばされたので、通信に携わっていた職員は全員亡くなっている。彼ら職員に緘口令を強いていたとしても、大事のことであり、秘かに身内に口外していたであろうことは考えられる。