村野藤吾の「生誕100年祭」が、1991年(平成3年)、
建築界の御歴々を集めて、千代田生命で行われた。
私は、これに立ち会い、ビルの案内をかって出た。
千代田生命が、村野藤吾の代表的建築のひとつで
あることを内外に示す、絶好の機会だった。
そして そのパーティで、乾杯の音頭をとったのが、
宿命のライバル「丹下健三」だった。丹下健三は
その時 78歳。髪は黒々としていて若々しかったが、
鈴木都知事との癒着を取り沙汰されていて、心なしか
元気はなかった。そして「丹下健三の挨拶」も
私は記憶している。
「村野先生は 93歳まで、亡くなられた前日まで
元気にお仕事されていた。千代田生命ビルを完成
した時は 75歳。ますます油の乗った絶好調の時期
だった。私は、今78歳だが、皆から『もうやめろ、
やめろ』と云われてまして・・・・。 みなさんも、村野
先生を見習って、80、90まで元気に働いてください」
というようなお話だった。
丹下健三は、1913年(大正 2年)9月 4日 - 2005年(平成17年) 3月22日(92歳)
村野藤吾は、1891年(明治24年)5月15日 - 1984年(昭和59年)11月26日(93歳)
丹下健三は村野藤吾より22歳若い。共に90過ぎまで生きた。
丹下健三の葬儀は、自ら設計した「東京カテドラル聖マリア大聖堂」で行われた。
村野藤吾の葬儀は、大阪市中央区玉造にある「聖マリア大聖堂」。(ここは
細川ガラシア夫人のゆかりの地)。
東京と大阪と異なるが、共に「聖マリア大聖堂」というのが因縁を感じる。
ただし、丹下健三は、自ら設計した「聖マリア大聖堂」の地下墓地に
眠るが、村野藤吾の墓は京都南禅寺にある。いかにも、洋の東西、
時代、宗教をも超越した村野藤吾らしい。
建築界の御歴々を集めて、千代田生命で行われた。
私は、これに立ち会い、ビルの案内をかって出た。
千代田生命が、村野藤吾の代表的建築のひとつで
あることを内外に示す、絶好の機会だった。
そして そのパーティで、乾杯の音頭をとったのが、
宿命のライバル「丹下健三」だった。丹下健三は
その時 78歳。髪は黒々としていて若々しかったが、
鈴木都知事との癒着を取り沙汰されていて、心なしか
元気はなかった。そして「丹下健三の挨拶」も
私は記憶している。
「村野先生は 93歳まで、亡くなられた前日まで
元気にお仕事されていた。千代田生命ビルを完成
した時は 75歳。ますます油の乗った絶好調の時期
だった。私は、今78歳だが、皆から『もうやめろ、
やめろ』と云われてまして・・・・。 みなさんも、村野
先生を見習って、80、90まで元気に働いてください」
というようなお話だった。
丹下健三は、1913年(大正 2年)9月 4日 - 2005年(平成17年) 3月22日(92歳)
村野藤吾は、1891年(明治24年)5月15日 - 1984年(昭和59年)11月26日(93歳)
丹下健三は村野藤吾より22歳若い。共に90過ぎまで生きた。
丹下健三の葬儀は、自ら設計した「東京カテドラル聖マリア大聖堂」で行われた。
村野藤吾の葬儀は、大阪市中央区玉造にある「聖マリア大聖堂」。(ここは
細川ガラシア夫人のゆかりの地)。
東京と大阪と異なるが、共に「聖マリア大聖堂」というのが因縁を感じる。
ただし、丹下健三は、自ら設計した「聖マリア大聖堂」の地下墓地に
眠るが、村野藤吾の墓は京都南禅寺にある。いかにも、洋の東西、
時代、宗教をも超越した村野藤吾らしい。